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令和6年11月


町長退任あいさつ

 私は、今月15日の町長任期満了をもって退任いたします。今月でこの欄を終わります。長いことおつきあいありがとうございました。

 長いこと全ての町民の皆さんにご支援いただき、ここに11期44年間、早川町長として、町の先頭に立たせていただたことは、大変名誉あることでした。その上、歴代議会をはじめとして全ての町民の皆さんに力強くお支え頂きましたこと、心からの感謝と御礼を申し上げます。

 長くもあり短くも感じ、感慨ひとしおでございます。

 私は、この大自然の中で生を受け、育ってきた者として、子供のころから、今日まで84年間、わが故郷と一体で生き続けてきました。日本が戦後の復興と高度成長期であった若いころ、早川町は真っ先に過疎化の危機に直面しだし、昭和35年の合併時に一万人あった人口が、昭和55年には3000人に急減していました。町の大きな理由は、国が戦後の復興から国づくりに高度経済社会を目指して舵を切った中で、国策による木材の自由化で日本林業の衰退と水力発電の技術革新と合理化、無人化による町の人口流出が始まり出した、その中で、皆さんの御信任をいただき、ふるさと早川を守る決意で町長職を踏み出させていただきました。

 町は六か村が合併して以来、、広い面積を有し、今の様には地域間交流もままならない中にあって、人口流出、高齢化が進む一方で、「早川町とは何ぞや」というみんなの足元の自治への不安と戸惑い、早川町としての一体感が育ち切っていない状況でした。旧村が消え20年もたちながら町としての目標がまだ定まらない時でした。そこで町民への意識改革と将来に向かっての町づくりのための第一弾の目標として「旧村一拠点づくり」を提唱し、第一歩を踏み出しました。

 西山地区では秘境奈良田の里づくり、三里地区は廃校のヘルシー美里とヤマセミの野鳥公園づくり、都川地区は統合中学校建設と新しい早川中学校開校、硯島地区は、雨畑硯の伝統保存、本建地区は、赤沢の重要伝統的保存地区指定と維持、保存、五箇地区は上流文化圏研究所とヤマセミ分譲地と住宅建設など、旧村の特性を大事にした地域づくりを町の目標としてスタートいたしました。「自分の生きている足元が自信と誇れるようなところでなかったら、ふるさとと言えない」という信念のもとふるさとづくりを原点からスタートいたしました。そして、早川町の将来に向かって上流文化圏構想(1994年平成6年)の下で、今日を迎えています。

 44年間の歳月を顧みると、昭和57年の町が壊滅的になった10号台風災害とその復興、平成10年からの平成の自治体合併への早川町の単独存続の決定、平成25年の豪雪大災害、などの危機が思い起こされます。、こうした中で南アルプスプラザの建設、森林組合の単町存続をはじめ、昭和63年、産業活性化事業として南アルプスふるさと活性化財団スタート、平成2年東京都品川区との姉妹提携交流事業のスタート、平成21年「日本で最も美しい村連合」加盟、平成23年、上流圏研究所「第一回地域再生大賞・特別賞」受賞、平成26年、南アルプスユネスコエコパーク登録、平成28年新庁舎落成など等、そして今、町誕生以来、早川町は厳しくもここに68年の歩みを続けています。

 いま私たちの町は、将来に向かって大きく動き出しています。国家的プロジェクト、リニアモーターカー建設の中心的な位置にあり完成を待たれるとこにいます。完成後は早川町も東京、名古屋、大阪へも通勤の可能性が出てきます。その上、南アルプス周遊自動車道路、奈良田-南アルプス市間が開通を見て、町の不便さが解消し町の基盤が整えられていきます。行き止まりという条件不利地域からの脱却も現実なものとなります。

 国中で人口減少が進む中で、そして私たちは山村へき地で生きる中で、早川町は、存在感を増し将来に向かって力強く生きられる基盤と可能性を確信いたします。

 迎える11月16日からは新しい町政がスタートいたします。新町長を先頭に町民皆が心を一つにして私たちの故郷早川町の新時代をつくり、前進させんことを願って退任の挨拶とさせていただきます。本当にありがとうございました。

令和6年11月      町長 辻󠄀 一幸

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