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早川町の年中行事


『早川町誌』(昭和55年発行)と『早川町の郷土芸能(年中行事)』(昭和58年発行)からとりました。ダブっている内容もありますが、当時の様子が生き生きと伝わってきます。

 

も く じ

『早川町誌』
より

『早川町の郷土芸能(年中行事)』より

1 節と休み日
2 大正月
3 小正月
4 二月
5 三月
6 四月
7 五月
8 六月
9 七月
10 八月
11 九月
12 十月
13 十一月
14 十二月

大正月(正月飾り)
厄日まち(厄払い)
七草粥(鳥追い)
鍬入れ節供(ハタケウナイ)
小正月(ヤナギ飾り)
正月(オホンダレ・ハナ)
小正月(テッポー、ブクヅチ、オボコ)
小正月(オカタブチ)
小正月(飾りダンゴ・タワラ他)
小正月(月見)
小正月(ドンドン焼き)
小正月(デクコロバシ)
山の神祭り
ななえまち(観音祭り)
庚申祭りと二十三夜祭
天神祭り
弁財天祭り
節分
金毘羅社まつり
祭り(お神輿)
妙法講
祭り(お神輿)

祭り(お神輿)
お節句(桃の節句)
春祭り(子ども神輿)
お釈迦祭り
お節句(端午の節句)
清正公祭り
祗園祭(テンキョウサマ)
施餓鬼と虫おくり(虫封じ)
雨乞
盆行事、投松明
盆行事(盆飾り)
八朔(ハッサク)
クジ神様と祭り
十五夜(十三夜)
大原野七面堂の祭り
秋祭り(お神輿)
北の池大明神の祭り
十日ン夜(トウカンヤ)
エべス講(エビス講)
水神まつり(カービタリ)
風の神送り(風祭り)

 

『早川町誌』(昭和55年発行)より

 

1 節と休み日 

 行事の日をモノピといい、モノビに近い前の日をモノメエ(物前)と呼んでいる。
 臨時の休日としては、茂倉では祇園(ぎおん)(七月十五日)に続いて七月十六日を農休みとしているが、雨畑には農休みはない。その代わり雨畑では、昔はモライポン(もらい盆)といって、若い衆(十五歳以上、妻帯する三十歳前後までの者が加入)が盆の直後、区長に臨時休暇を請求する。区長は情勢を察して二日か三日の休暇を決定し、これをモライポンといって村中全部が仕事を休んだ。
 行事は昔は旧暦でやったが、戦後昭和三十年ころから新暦となり、今はほとんど新暦で行っている。ただし、雛の節句は四月三日に、盆は八月十三日に、新暦の一月遅れに行っている。

2 大正月 

 正月を迎えるためには「正月支度」といって、歳末にしなければならない種々の用意があった。「衣食住の変遷」の「食制」の項にも述べたが、奈良田の人たちは雪の降らない前に、十二月二十日ころ「しまいざと」(終い里)といって、七里の足馴峠を越えて鰍沢へ出た。各人が稼いで製作した下駄、コビキなどの木工品を背負って行き、これらを売ってその夜は泊まりつけの定宿へ一泊し、翌日は米、酒、乾魚、塩鮭などを買い入れて背負い、再び山の峠を越えて奈良田へ戻って来た。こんな苦労をしても、年神様をお迎えして家族そろって楽しい正月を過ごすことが出来るという喜びに、村人は胸をふくらませたに違いない。
 年の暮に済ませておかねばならぬ用件がまだあった。奈良田では寺カンジョウといって、大晦日にはお寺へお布施と米を四合五勺、それに大根、ごぼう、人参、味噌などを添えて持って行く。上湯島ではオコーの葉にオシンメ(しめ)をつけて持って行き、墓参りをした。またオモッセカンジョウ(大晦日勘定)といって、村内の勘定や、個人間の貸借の精算、借金の弁済をもせねばならなかった。(池田俊平氏調査「西山村の年中行事』より)
 正月の神を「年神さん」と呼び、雨畑では、年神さんは雨畑川の川下から来て、アキの方へ送るものだと考えられた。年神棚は十二月二十五、六日ころには飾り、松飾りやしめ縄も、一夜節供はいけぬといって、遅くともコモッセー(十二月三十日)には飾り終わる。奈良田では、年神棚(年棚)は巾の広い新しい板を使い、天井から新縄で吊し、カミヒボ(しめ縄)に十二枚のヒーナ(神明)を垂らす。しめ縄の真ん中の部分に松の小枝を逆さに挟みこんでおく(下湯島)こともある。年棚にはオソナエ一重ね、密柑、お洗米、柿などを供える。
 奈良田では十二月十一日を「松はし節供」といって、山からお松を迎えて、軒下の清らかな場所へ安置し、酒樽のカガミを抜いて祝った。(この酒は正月中の飲用にする)その他の地区でも十二月二十七、八日ころには「お松へーし(はやし)」といってお松を迎えた。門松は正面玄関の出入口に二本立てるが、チカラギ(力木)として栗の杭を二本打って、それにしばりつける。栗の木を杭にするのは「繰りまわしをよくする」などともいうが、最近は杭の代わりに雑薪の束をおき、その中央へお松を立てる家もある。門松を立ててからは、正月の三が日まで、年神様の神棚へ上げるのと同じ食物を松の枝にのせて、お松様にも供える。
 奈良田では、元旦から三カ日間は旦邦シ(衆)がお洗米を供え、お題目を唱えてから若水を汲むが、雨畑では五十年前までは、その家の長男が未明に起きて若水を汲んだ。オヨネ(白紙へ米を包んだもの)を井戸枠の上において水神様に供えてから、井戸水を汲み、その水でお茶を立てて、年神様やお松様にも供え、家族もそれを飲んだ。昔は正月元旦だけは、男がお茶も吸い物も作って女衆に食べさせ、それを食べてから午前四時ころ氏神様へ参詣した。茂倉では、先ず区長が氏神社へ行き、太鼓を叩くか、鉄砲を放すと、それを聞いて村中の人が集まったという。雨畑では氏神様のほかに、ショーキサン(風の神)にも参る。上湯島では氏神様のほかに秋葉山、疱瘡神、稲荷、天神、山王、七面山、湯王大権現などにも参る。
 オモッセー(大晦日)の晩に飯をたくさん炊いておいて、それを正月の三カ日間食べる家もあった。オモッセーの晩は年越しの魚として大てい塩鮭か、塩鱒を食べた。また家によっては年越しそばを食べる家もあった。正月元日の朝は餅のゾーニを食べる家が多い。吸い物にはソーメンを食べる。
 昔は臼、唐箕(せんごく)、鍬、鎌等の道具を洗って土間へ一緒に集め、道具神にしめや松の枝を飾り、食物を供えた。また牛小屋、馬小屋へもしめを貼ったが、今はこれらの家畜を飼っている家はほとんどない。
 六十年くらい前までは、お宮へ初参りをして帰るとすぐに年始にまわった。これを「お礼」といって、三カ日のうちにすればよかった。大家へ一番先に行き、子分は親分の所へ行く。大屋からの年始も三カ日のうちに済まされた。昔は年始には紋つき羽織袴で村中をまわったが、後には親類や親分等へだけ行くようになり、今はほとんど歩かなくなった。上湯島では、年始は寺に集まって行う。元日と二日、酒と茶菓、志を出し合ってやるので、一般の年始回りは廃止している。茂倉では、オモッセー(大晦日)にハツウといって、米や麦や餅をもってお寺へ納めたが、今は金を持って行くという。寺の坊さんが年始に歩くのは正月四日で、奈良田では住職が小僧をつれて、「外良寺(ういろうじ)ご年始」といって歩いた。
 昔は子供らに新しい手拭、下駄や足袋をやったが、今は書き初めをもらったお礼に金をやるだけで、これがお年玉に当たるものだ。また昔は正月に万歳、アメヤなどの芸人がまわって来たが、今は来ない。
 奈良田では正月二日を仕事始めといって、下駄ひき、その他の仕事を必ずした。山へ行く衆はシンメイを切って持ち、カラサンをはいて出かけた。正月中は仕事をしない。二日の夜は初夢を見る。雨畑でも正月二日を仕事始めといって、山へ行って炭木(炭の原木)を伐った。また大工は仕事場へ行って材木を削り、道具(鋸、よき、のみ等)を研いだ。
 正月三日は不浄日といってなにもしない。また不浄日ゆえ歩くなといい、どこへも行かない。上湯島では三日にお墓参りに行き、線香を上げる。また早川では、厄年(男二十五歳と四十二歳、女十九歳と三十三歳)の者が集まり、厄払いの行事をする。
 正月四日はタナサガシといって、年神棚にあげてある食物をみな下げて雑煮にして食う。雨畑では松の小枝一本だけを残しておき二月一日(次郎のついたち)にそれを取り払う。しめ縄は取っておいて、小正月のドンドン焼に子供らにやって焼いてもらう。また正月四日にはアラクウナイといって、山畑を鍬でうなう真似をし、種として米をバラまき、オミキ(神酒)を上げた。
 正月七日を「七日正月」「送り松」等といい、この日お正月さんは天竺に帰られるという。来年も達者で来てくれるようにと願い、酒、線香を上げてからお松を転ばす(奈良田)。松は明の方へ持って行って納める。下湯島ではお正月さんを送るといい、門松の枝だけをとって送り、芯は残しておく。それからはお正月様にはなにも進ぜない。
 七草粥には芹、大根、大豆、小豆、粟、麦、昆布などを入れる。七草の中では芹が第一であるから、どうしても探して来なければならない。六日の晩と七日の朝の二度、唐土の鳥を追うといって、爼板の上に七草をのせて叩きながら、「唐土の鳥が、日本の土地(国)へ、渡らぬ先に、七草を打ったり、打ったり」と唄う。あるいは「唐土の鳥が、日本のドイへ、渡らぬ先に、七草菜をば打ったりや、打ったりや」と唄いながら七かわり叩く。七草粥はしょっぱいもの(塩)を入れずに煮る。雨畑では、七草を刻みながら「唐土の鳥と、日本の鳥と、渡らぬ先に、パタクサつん舞った」と唄い、茂倉では「七草なずな、トンドの鳥と、イナカの鳥と、日本の橋を、渡らぬ先に、パタパタ」と大声で唱えるといい、各部落で害鳥よけの唱え言が少しずつ違っている。雨畑でも七草粥へは塩を入れぬので、塩なし粥または白粥という。正月の七日、十四日、十五日に炊く粥には塩を入れるものではないという。
 雨畑ではこの日を「厄よけ」といって、厄年の男女がオミキを一升ずつ持ってヤクジンさんへ集まり、坊様を頼んで祈ってもらい、一同でお題目を唱える。そのとき酒が多く集まって飲みきれないので、出席者のうちの希望者に安く売るという。
 この日早川地区では、道祖神祭のヤナギを立てる。
 正月十一日を奈良田では「鍬入れ節供」という。ハタケノカミサンまたはハタガミサマは大晦日に天竺から降りて来られるといい、十一日まで御飯、酒、柿、密柑などを進ぜる。下湯島ではこの日アラクウナイをする。シンメを切って松の枝につけ、オソナエ、酒、茶、干柿、線香などを上げて庭先に立てる。鍬、鎌などの道具を持ち、家中で粟、白米などを播いてうなう。種は大桝に入れて行き、「一粒万倍」といいながら播く。お昼と称してオタル(オソナエ)を食べ、柿も分ける。またこの日はオカラクをはたく。上下湯島では、畑の神は天竺から降りて来て、野良にいて十日の夜にオカラクを背負って天竺に帰られるという。茂倉では正月十一日をタオコシといって、田の隅を鍬でおこし、餅を供えた。またアラクウネエといって、畑ヘ粟を蒔くまねをした。またこの日にクラビラキをするが、年の暮に桝へ米を入れ、年玉の餅をのせてお倉へ納めておき、十一日にそれを出して炊いて食べるのである。

3 小正月 

 正月十四日を「十四日正月」または「宵祭」といい、十五日の支度をする(奈良田)。小正月の支度はいろいろある。
 オホンダレを二尺五寸くらいのカツの木で作る。皮を削り、目鼻口髪など人の顔の形を描き、シメ飾りをして立てる。オホンダレ様は夫婦だといって二本ずつ立て、門松を立てた杭や、家や倉の出入口、大黒さんの前などに飾り、二十日まで毎日三度々々の食物を進ぜるが、二十日にはずす。他の部落でも、カツの木に目鼻を描いたものを二本ずつ結わえて、これを二組(計四人)作って門口などに飾る。これは他の町村でいう門入道であろう。
 奈良田を始め各部落でアワポ、アワッポ(粟穂)の形を作る。またカツの木をうすく削いで、ハナ、カキパナ、ケズリカケを作る。奈良田ではこれをドフーパナともいい、下湯島ではハナをかくというが、これらはいずれも、穀物が実って穂を垂れた様を現すものである。
 奈良田では、山入りのとき伐って来たダンスバラの木に餅や団子をつけ、ハナモチ、ハナダンゴを十四日の晩にこしらえ、十五日に飾る。雨畑や茂倉でも十四日に丸団子、マユダマ、タワラ(俵を積んだ形)などを餅で作り、リョウブ、ベウブナ、ダンゴパラ、ダンゴモヤ等と呼ぶ枝のしなやかな木の枝に刺して、二十日まで飾る。
 また長さ二十センチばかりのカツの木の上半分の皮をむき、頭部を十文字に割ったカユカキ棒を二本作って神棚へ飾っておき、十五日の朝小豆粥を炊いて、このカユカキ棒で粥をかきまわし、頭の割れ目に粥粒がはいればその年は豊作だという(粥占い)。またカツの木で家族の数だけの箸を作っておき、その箸で小豆粥を食べる。
 十四日には道祖神祭のヤナギや豆を立て、夜はドンドン焼きをし、獅子舞いをして各戸をまわる。ドンドン焼きには各戸から門松、しめ縄、モヤ(薪)などをもらい集めて燃やし、その火で団子を焼いて食えば虫歯を病まぬという。道祖神祭は若い衆の行事で、若い衆には義務教育が終わってから入り、二十五歳まで加入している。頭屋は若衆頭の家をあて、二十五歳の者が数人あれば、生まれ日の早い者がする。
 この日は若い衆、娘っこ、子供らもお白粉をケバる。この日にお化粧をすると艶がよくなるといい、一年中の分を塗る。
 奈良田は小正月の行事が豊富で、特異なものがいくつかあり、中でも十四日のお祝、オカタブチ、月見等が注目される。
 十四日のお祝といって、初節句を迎える子に親戚からお祝の品を贈る。男の子には桐の木で作った鉄砲に、「福貴長命、めでたくかしこ」「百発百中の銃」などと書き、模様をつけたものをやる。その他男の子には、大黒様が持っているものと同型のブクヅチ(福戀に餅を添えて祝ってやる。女の子にはオボコ(デクともいう人形)を贈る。昔は十二単衣の内裏様の形に作ったという。オボコには松竹梅などの模様をあしらい、「寿福長命、目出度くかしこ」とか「福貴長命、目出度し」などと書き、贈られたオボコは居間の床に飾っておく。鉄砲、ブクヅチ、オボコはカツの木で作るのが本式であるが、重いのでほとんど桐で作り、これらは親戚のお爺さんやおじさんが作ってくれる。
 オカタブチは、十四日の晩の行事である。男の子はお化粧して、初めて正月を迎える花嫁を打ちに行く。枝のあるカツの木の皮をむいて着色し、きれいに顔を描き、角の尖った所には女の性器を描いたり、「福貴長命、めでたくかしこ」などとも書く。昔は本当の刀をさして着物袴で、村中の子供が手に手にこの棒を持って押しかけ、逃げまどう花嫁を家の中まで追って来て、腰から下をぶつ。ころ合いを見て主人が出て来て「どうも御苦労さん」といって、団子や菓子や金などをくれる。花嫁をぶつ時の唱えごとは、 オーカタ、オカタ、なんぼになりゃる、三十三になりゃる、
 三十三のよこは、ベベのはた、虫くい、虫くい。またこのオカタブチの棒で柿の木をぶち、「なるか、なるか、ならねば伐るぞ」と唱えて、結実を願う。これが終わると月の出ない前にお寺の銀杏の木に棒を投げかけて帰って来るという。
 雨畑では十五日にナリキゼメをする。家の周囲の果樹に傷をつけて、「ならなきゃ伐るぞ」と唱えながら、団子をゆでた湯を木の傷口にかけてやるという。
 奈良田には月見の行事がある。男の子がオカタブチをしている間に、女の子はお化粧をして家内中で西の端の、月の出がよく見られる小高い所に行く。大村では三組に分かれ、三カ所で月見をする。線香を立て、太鼓を叩き、お題目を唱えながら月の出を待つ。月の出る場所によりその年の豊凶を占う。寺の傍の森を中心にして右が上がる、左が下がるという。月が北の方へ寄って上がると、その年は陽気がよい(作物の実りがよい)、下がって出れば陽気が悪いという。
 正月十五日には、十五日粥、ゴネハンの二つの行事が行われる。朝小豆粥を炊いて食べ、カツの木で作ったカユカキパシ(粥カキ棒)二本でお粥をかきまぜる。粥カキ棒はカツの木の皮を半分むき、上部に十文字に割れ目をつけたもので、粥をまぜながら、お母さん、お父さんがあたるようにと祈り、割れ目に入った穀粒でその年の穀類の豊凶を占う(奈良田)。粥はおえべすさんと大黒様に供える。上湯島では、オホンダレサンの粥とか、ダンジョウの知恵粥(ちえがい)などとも呼ぶ。粥を吹くと福の神が飛んでしまうといって、熱くても吹かずに食べる。粥カキ棒はアマ虫がつかないようにという呪に、勝手場の水道の傍に置く(奈良田)。
 下湯島では、十五日をヨネハン(御湟槃)と呼び、釈迦の亡くなった日だといって、豆の飯を進ぜる。上湯島では、ハナモチを持つてお墓参りに行き、お寺と墓地へ上げる。仏壇へも飾り、酒の好きな人の墓には酒を注いだ。
 正月十六日にはオハナイレといい、米を紙に包んだものと線香を持ってお墓参りに行く。親戚の墓にも少しずつ進ぜて、残りを寺に上げる。
 正月十七日には山の神祭をする。この日は山の神の結婚式だから山に入ってはいけぬといい、お寺へ集まってお題目を唱える。山の神にはオミキ(神酒)を供え、梅の木の枝で弓を作り、矢を二本添えて、シメをつけて山の神に上げる。奈良田では、弓はカツの木や桑の木で作り、モトユイを弦に張る。大てい家の庭先の立ち木に上げる。普通弓二本、矢四本で、矢はウラ切りの細い竹で作る。シンメイと米も一しょに供え、上げた弓は十八日に子供が下げるという。正月十九日には道祖神祭のヤナギ(御神木)を取り除き、ヤナギの枝にした細い割り竹を一本ずつ丸く輪にして、各戸の屋根に投げ上げる(茂倉)。
 正月二十日を「二十日(はつか)正月」といい、またエベス講で初エビスという。エビス様と大黒様の御縁日で、各戸でコワ飯(赤飯)をふかして祝い、早川から生魚をとってきて進ぜる(奈良田、上湯島、茂倉)。
 正月二十一日をカンムリオトシといい、お山の神さんの一番大事な日である。山の神が弓をひいて歩くといい、そのため山に入ってはいけないという。
 正月二十五日は天神さんの祭日で、小中学生が主体となり、大人や若い衆も混じってお茶会を開き、菓子、神酒を持ち寄り、御飯を炊いて食べる。頭屋は年上の子供の家で、その年の卒業生の家を当てる。上下湯島でも行うが、奈良田では天満宮の桐に長い提灯を二つつけ、書初めを上げると手があがるといって、旗にして上げる。女子は裁縫が上手になり、思うことが叶うようにとミミンコ、サルボコ(サルボンギ)を作って上げる。赤色の布で三角の蒲団形に綿を入れて縫い、五つか七つ作る。人形もてんでに奉納する。
 正月送り、正月じまいといって、歳神を送る日は一定せず、家によりまちまちである。上湯島では二十八日から三十日の間に、門松や飾り松を片付けて送る。下湯島では三十一日が正月じまいで、お茶を進ぜて門松の杭を抜く。正月の余り酒があれば飲み、晩は御馳走をする。注連は近所の青木にゆわえつける。

4 二月 

 二月一日、雨畑では二月一日を「次郎のついたち」と呼び、餅をついて、一月中の正月飾り一切のものを送ってしまう。節分には、主人または長男が年男となって豆まきをし、各人が年の数ほど豆を食べる。またスイノウ(ウドンスクイ)を庭の木にかけておいて鬼を騙すという。また主人の箸を割ってイワシの頭を刺し、玄関の入口にかけておく。この日炉の灰へ豆を十二粒埋めておき、これを一月~十二月とし、その焼け具合で一年の各月の天気を占うという。
 二月七日をオテントウサンの生まれ日といい、上湯島ではこの日、赤飯、ウドンなどを作って祝い、お寺へ寄ってお題目を唱える。昔はモチ粟でオカラクを作ったが、今は米をはたいて作り、丸くして供える。
 二月八日、事八日(ことようか)の日である。二月八日をコトハジメ、師走八日をコトオサメとかコトジマイという。団子は黍と蕎麦をまぜて、頭を小さく下を大きく作り、オカサネを月の数ほどこしらえる。下げてからオツユに入れて食べる。雨畑では二月八日をコトハジメといい、部落中の者がお寺へ集まってお題目を唱える。この日を「オハトー」ともいい、昔は針供養をしたが、今はしない。
 二月初午の日には稲荷様の祭りをする。今は馬を飼っている家はないが、昔トロッコを馬で引いた者は、馬頭観音へお参りをした。
 二月十五日、御涅槃(ごねはん)の日で、奈良田では法皇寺へ参る。寺では釈迦涅槃のヌイガタの立派な巻物を飾る。昔非人がヌイガタをしながら諸国を巡って歩き、オセンガジ(千ガ寺)となって奈良田の寺に来たとき、ヌイガタがすんだので寄付したものという。

5 三月 

 三月節句、五月の節句は播てみで忙しいため、奈良田や下湯島では、三月に男女の節供を一しょに行なう。雛を飾り草餅を搗き、オソナエは神様にも供える。親戚には配らない。初節句の子には親戚から雛人形を贈る。名付け親も雛を買ってやらなければならない。男児は天神様を、女児はユーラクを飾る。女の姿をした土人形で、立ったのも坐ったのもある(奈良田)。上湯島では朝餅を搗き、晩は蕎麦を食べる。また奈良田では春三月ごろに凧あげをする。
 今は三月節句を、新暦の月遅れで四月三日にする部落が多い。雨畑では初産児のお祝に女児には鏡餅を、男児には鳥餅(トリという)を添えて贈る。飾った雛人形を早くしまえば、早く嫁に行けるといって、五日には片付けてしまう。この日にオゴリッコといって、女の子だけ集まって小鍋立てをし、男の子をも呼んで食べさせる。
 三月二十一日、茂倉では青年の主催で、三番叟の神楽を奉納する。
 彼岸、春秋とも彼岸には御飯を煮てお墓参りに行く。上湯島では女シ(女衆)が一軒一人ずつ出て、一週間寺でお題目を唱える。彼岸の供養にお寺へハナイレを持参する。雨畑でも彼岸には墓参りをし、中日には一戸一人ずつお寺(潤(うるう)雨山正徳寺)に集まってお題目を唱える。
 社日(春分、秋分に最も近い戊(つちのみ)の日)には地神祭をし、土の神を祭る。百姓の祭りで土に感謝し、この日は土いじりをしてはいけぬという。細野には丸石(自然石)を御神体に祀った地神がある。茂倉では社日に、二戸ずつ当番になり、当番の家に村の衆が集まる。幟を立て、太鼓を叩き、線香をともしながら、「祓いたまえ、清めたまえ、とう神、えみ給う、カンコン、シソン、シソンタケ」とくり返し唱える。地神様は作神様だといい、酒一升を供えてお祭りをする。

6 四月 

 四月八日はお釈迦さんの祭りである。奈良田ではこの日、子供らが山へ花取りに行き、ツツジの花などを取って来てお寺(外良寺(ういろうじ))の入口や廊下に一ぱい飾る。また瓶を持ってお寺へ行き、お釈迦さんに甘茶をかけ、その甘茶をもらって帰る。下湯島では村中の衆がお寺に集まり、信心をしてお題目を唱える。

7 五月 

 奈良田でも昔は五月節句をしたことがあるが、山畑が忙しく、山小屋へ泊まって仕事をする家が多いので、桃の節句と一しょに行うようになって(前出)今ではただ菖蒲、蓬を軒にさすだけになった。上下湯島では屋根葺きといって、蓬、菖蒲、萱の三色を家の軒に三ヵ所さす。饅頭を作って朴や栃の葉に包んだり、粟餅を搗いたりする。また農具を一切揃え、それにも菖蒲を上げる。上湯島では子供が凧あげをする。雨畑でも五月五日を男の節供といい、菖蒲と萱とよもぎを、家の表と裏の屋根、破風などにさす。また倉や物置の軒端にもさして魔よけとする。菖蒲の葉で子供が鉢巻きをすると頭痛を病まず、利口になるといった。この日子供らは村はずれなどで凧あげをした。

8 六月 

 六月十五日は祇園祭で天王様を祭り、子供が御輿をねり歩くのだが、今は月遅れで七月十五日にする所が多い(七月の項を参照)。上湯島ではお寺で信心講をし、年寄りの女シが集まって念仏を唱える。寺の石段の上に注連(しめ)を張り、竹筒二本に酒を入れて吊し、お水神さんにも神酒を上げて一しょに祭る。

9 七月 

 七月一日、この日は地獄の釜の蓋があくという(下湯島)。
 七月七日、七夕祭、タナバタは作の神といって、いろいろ煮て進ぜる。この日お昼前は畑へ出ない(上湯島)。雨畑では若竹へ短冊を吊して庭に立て、翌日はこれを倒して川へ流した。
 七月十五日は祇園祭で、牛頭天王や津島様を祭る。都川では子供らが御輿をかついで村中をねり歩き、各戸へねりこんで御祝儀をもらった。そのたびに庭ヘミコシを叩きつけて壊してしまうが、また来年はそれを修繕して用いる。この日水車のある家では、水神様を祭る。

10 八月 

 八月一日、八朔(はっさく)といい、「別れ饅頭」を作る。昔は麦だったが今は米で作り、あんを入れたもので、その後には作らぬから、こう呼んだ。またこれを「泣き饅頭」ともいったが、これから夜長となって、毎夜夜なべをしなければならぬから、こう呼んだのである。
 この日に七月一日のヤブイリを月遅れでするが、地獄の釜の蓋があくという。
 奈良田では八朔を「流れ日」といい、農道の修理をし、ボタモチを作った。上湯島では御馳走を仏壇に供え、寺でお題目を上げる。
 盆行事
 早川入り六カ村は、盆行事を旧暦で行っていたが、昭和三十年ころから月遅れでするようになったので、八月の項に入れる
 八月七日、七日盆といって、この日墓掃除をする。上湯島では施餓鬼があり塔婆を流す。下湯島では十二日に学校子供と婦人会で墓掃除をした。また早川では、盆前に老人クラブの衆が共同墓地の掃除をした。
 八月十三日、一般に十三日から盆行事の準備にかかるが、十三日を「花とりお盆」といい、朝ゲに山へ盆花を採りに行く(上湯島)。盆花は百合、ススキ、ゼンパナ、トチパナなどで、またナデシコ、トチナ、キキョウバナ、オミナエシ、カヤの穂を盆花という部落もある。盆棚は十三日の朝作る。机を用い、饅頭、青物、房のままの胡桃等を供え、三度々々の食事を上げる。新盆の場合は、盆棚に白い布をかけて飾り、曼陀羅、御本尊の掛軸、身延のゴゼンサンの掛軸等を掲げる。馬は胡瓜、馬の脚はススキの茎で作り、棚の上にススキの穂を敷く(下湯島)。奈良田で茄子馬を飾る風習は比較的新しいもので、平地の仕方を真似たものではないかという。
 雨畑では盆棚をお仏壇の近くへ飾り、盆ゴザを敷き、その上にカヤの葉を敷いて、茄子馬二頭と果物などを飾る。無縁仏の棚は特に設けないが、一般の精霊に上げる食物の膳より一段おろした所へ食物を供え、「ナム、ムエンボトケモ……」といって進ぜる。
 下湯島では十三日に、お上人がお経を上げに各戸をまわる。墓地には十五日まで三晩、燈籠に火をともす。
 お精霊さんの迎え火をショーリョービという。上下湯島では、門口で迎え火、送り火を焚かない。川原に麦からをニホのように積み重ね、火をつけた麦からを松明として投げて燃やす。下湯島では、川原の大石の上に麦からを高さ二間ぐらいの円錐形に積み、青年や子供が集まって、松明に重しの石を入れて、麦からの塚に投げつけて燃やす。その時「ショーリョービ、マイヨービ、ナゲタイマツヤカンヨ」と唄いながらする。下湯島では十三日の晩から三晩続けるが、上湯島では十四日一晩だけやる。ナゲタイマツに使う藁束は、毎日一束ずつ各戸からもらい集める。
 奈良田では、十四日の晩家の庭と墓地で迎え火を焚く。オショーリョーカンバといって、山の木から剥いで来たシラカンバ(白樺)の皮を、二センチくらいの巾に切り、竹か木を細く割ったものに挟み、線香と一しょに盛り砂の上で燃してから墓参りに行く。供え物として瓜、南瓜を刻んで米に混ぜたものを南瓜の葉などに盛り、膳にのせて持って行く。夕方六時から七時ころ、家族そろって墓参りに行くので墓地は賑わう。カンバの皮を燃し、燈籠にも火を入れ、持参した供え物を撒いて、親戚の墓にも参る。十七日の晩まで墓地の燈籠に火をともす。お布施は寺の本堂で渡し、ハナイレをも届ける。米と粉を京判(京桝)一升ずつ入れ、米は盆礼の意味である。下湯島でも、ご先祖さんのオヨーメシにといってハナイレを持参する。新盆の家ではオヤトイット(雇い人)といって親戚の衆に来てもらい、晩に御飯を出す(奈良田)。
 雨畑では迎え火は、昔はアカシ(タイマツの松ヤニ)を焚いたが、今はカンバの皮を焚く。道から家の入口まで四、五カ所で焚き、精霊が帰る時はその反対に、家から道まで送り火を焚く。
 盆中(十四日、十五日、十六日)の三日間は毎日餅をつき(細野)、三度々々お茶とともに先祖様に上げる。その間毎晩お墓ヘ燈明をつけに行き、また軒先に盆提灯(岐阜提灯)等を吊す。
 八月十六日を送り盆という。奈良田では朝送り焚火をし、家によっては餅をつく。盆様に上げた飾り物を大川へ流すが、燈籠流しをする時、小さな餅二つをつけて行って、一つは流し、一つは自分で食べるか持って帰る。寺にはハナイレをナカラ(半桝、約三合七勺)ずつ持って行き、生前酒好きの人の墓には酒を注いでやった。
 雨畑では、十六日早目にお精霊様にお昼飯を上げ、夕飯をも持たせ、ナス馬、餅、花等を芋の葉に包んで、墓地とか山裾へ持って行き、「オショーリョー、送リャーレ」と唱えて送るという。川の近くの部落では川へ送る所もある。盆様を送ってから正徳寺へ集まり、お題目を唱えて施餓鬼をする。川端へくだり、水難者の供養に供物を流し、坊様がお経を上げ、村人もお題目を唱える。経文の文字を五字ずつ書いた色紙の小旗を多く作り、大旗や塔婆をも立てる。この小旗はもらって来て畑へ立てれば虫がつかぬといい、これを「虫封じ」と呼んだ。
 盆様送りを、茂倉では十六日の午前中に、早川では夕方送る。ナス馬、果物等を添え、点火した線香を持ってお墓に送るという。
 盆のまぎわに死人が出ると、葬式の際、棺の中の死人の頭にコンドシ(小笊)をかぶせてやる。これはあの世へ旅立っ仏と、あの世から故郷へ戻って来る精霊たちと、途中で出会った時、「おいらはあの世から帰って来たのに、お前だけはこれから行くのか」といって、亡者の頭を叩くから、それを防ぐためにコンドシをかぶせるものだという。
 上湯島では、もとは切子燈籠をつけて、寺の庭で盆踊りを踊った。踊りには甚句、加賀、八幡、追分などがあって、太鼓を叩き賞をも出したという。奈良田では十六日から小学校の庭でオドリコをするが、昔は大家の庭でしたという。囃子は三味線で、郡上八幡以外のものに使った。郡上八幡はずっと前に山師(材木商)が来て教えたものという。
 八月十七日に奈良田では施餓鬼をする。水でヒョージニ(非法死、自殺など)をした人の供養を、その場所で行う。青竹に旗を立てて川へ流す。お上人は村から喜捨を集めて経をよむが、上下湯島からも一人ずつの僧が来て、僧侶三人で行い、十八日の朝飯を食べて帰る。
 また茂倉では先祖祭りといって、望月マキの者は八月十五日に、山の神へ参詣し、深沢マキの者は八月二十五日に、身延の七面山へ参詣する。当番制で、当屋になった者は酒二升、サカナ、菓子等を持って行って奉納し、集まった同姓の人たちが、後でそれを頂く。
 雨畑では、八月二十三日に風祭りをする。各家からしめ縄をもらい集め、これを長くつないで風道へ張り、台風除けを祈った。

11 九月 

 二百十日と二百二十日、上湯島ではお寺に集まり題目を唱える。
 ミクンチ(三九日)、九日、十九日、二十九日を祝う。九日をお九日、十九日を中の九日といい、御馳走を食べる(下湯島)。上湯島では三つの九日を七面サンのお祭といい、餅を搗いて供え、お寺にお参りをする。奈良田ではこの日お寺へ集まってお題目を唱える。
 雨畑でも九日、十九日、二十九日をオクンチ、またはミクンチといい、荏の粉ぼた餅(えのこなぼたもち)を作る。
 九月十二日、オ首ツギという。下湯島では十二日の晩オハギを作って祝う。そのいわれは、日蓮上人が竜ノ口で首を切られるという時、馬に乗せられて連れて行かれた。その時茶屋の老婆がオハギを作り、日蓮上人に上げようとしたが、日蓮上人は「ばば、帰りによばれるわ」といって行かれた。そのため首がボタモチでつながって切れず、首切りの振りあげた太刀が三つに折れたという。それでボタモチを作って祝い、日蓮宗の寺では、それを進ぜてお題目を唱え、オブックにして参詣人にも分けてくれる。
 旧暦八月十五日の満月の夜を十五夜という。奈良田では各人が家で月を拝む。サツマ芋、里芋、大根、野菜などを飾り、団子は供えない。時には神酒をも上げる。飾り物は子供らがもらって歩き、家に持ち帰って煮て食べた。雨畑でも旧暦十五日の夜、月見団子、サツマ芋、里芋、トウモロコシ等を供えて月の祭りをした。子供らが各家をまわり、「上げとくれ」といって、供えた食物を分けてもらったが、今はこの風習も廃れて来た。

12 十月 

 十月十日を十日ン夜(とうかんや)といい、この日畑神サンが天竺(天)に帰られるという。米や栗をまぜ、好物のオハトウ(オカラク)をはたいてお俵にこしらえ、一升桝(大桝)に入れて供える。桝の中に紙や南天の葉を敷き、その中に入れてお宮に持って行く(下湯島)。この日畑神さんは畑から家に来て、お祝してもらってから、オカラクを背負って天竺に帰られるという。粟の穂を上げ、新しい黍、粟の餅を搗いて仏壇にも上げる(上湯島)。雨畑でも十月十日をトウカンヤといい、夜オカラクを作る。昔は粟で作ったが、今は米で作る。オカラクというのは、生米を水車でついて、団子または俵の形に作り、神棚へ上げて後にゆでて食べる。この日は畑の神が天に帰る日といい、昔は餅をついた。
 旧暦の九月十三日を十三夜といい、お団子等を月に供え、十五夜の時のように子供らが「上げとくれ」といって、もらいに歩いた。
 十月二十日はエベス講である。黍のボタモチかオコワ(強飯)を作り、タカガミサマに上げる。タカガミサマはお札を頂いて、家の柱に祀ってある。茂倉では十九日をヨイエベス(宵恵比寿)といって蕎麦を食べ、二十日にはオコワ、ボタモチ等を作って祝った。
 十月は神ナシ月といって、神様は全部出雲へ行って留守になるが、十月末には帰って来るという。

13 十一月 

 十一月二十三日を昔は「二十三夜」といって、団子、大根、果物などを供えてお月様の祭りをした。
 また十一月中に、冬中使う薪を山から取って来て、冬を迎える準備をした。

14 十二月 

 十二月一日を川ビタリといって、お水神様の祭りをする。水車を休み、水仕事はしない。奈良田には水車が三軒あり、三組に分かれて祭りをする。井戸へヒイナ(神明)を立て、世話人が神酒を一升買い、水神様に上げてから、ゴクロウメン(御苦労前)にみなの衆に飲んでもらう。雨畑ではボタモチを作り、重箱に入れて水神様に供える。早川には水車が二軒あり、茂倉には四軒あるが、この日は水車を休んで、水車小屋にしめ縄を張り、オミキを水神様に上げる。
 十二月八日をオコトまたはオコトオサメといい、昔は栗か黍をはたいて生の団子を作り、これをオハトーと呼んで神棚へ上げ、家族も食べた。オハトーは神事にだけ用い、奈良田ではオカラクという。
 またこの日を神送りといって、風邪をひかぬために風邪の神送りをした。早川では、昔はヒノキの枝で小屋の形を小さく作り、その中へオカラク(水に冷やした米で作ったおそなえ)を入れ、川端へ持って行き、坊様もついて行ってお経を上げ、その小屋をおいて来たが、今はもうしない。茂倉では、棒の先にシメをつけて、家の前や道のかど等に立てておくと、子供らがそれを集めて行き、坊様も出てお経を上げ、ガレ(崖)へ持って行って捨てた。
 老平では、この日針供養といって、豆腐へ針を刺し、針仕事を休んだ。
 十二月十七日は、納めの十七日といって山の神祭をした。正月、五月、九月、十二月の十七日が山の神祭の大切な日で、もちろん山には入らぬ。奈良田には十七日講があって、みなで集まり山の神に祈る。神酒を上げ、あとでそれを頂き、一晩唄って遊ぶ。カイトと山の間に桐があり、その日一日はそこから向こうの山に行くことを禁じている。
 冬至にはカボチャを食い、柚子湯を飲むと、風邪を引かぬし、中気にならぬという。
 煤はきは日を定めてないが、各家で十二月二十日以後適当にやる。
 餅つきは二十八日か三十日にする。二十九日はクモチ(苦餅)といって嫌う。
 大みそかには米の飯を食べる家もあり、そばを食う家もある。昔は年の暮に、塩鮭や塩鱒をコリで買って数軒で分けた。一コリはカマス入りで、十本から十五本の塩魚が入っていた。
 大みそかの除夜の鐘を聞くまでは起きていて、それからすぐに神参り(初参り)に行く者もあり、一眠りして午前四時ころに行く者もある。初参りには氏神様、ショーキさん、山の神、厄神様等の神々へみな参る。

『早川町の郷土芸能(年中行事)』(昭和58年発行)より

 

大正月(正月飾り) 

 正月の松飾りは奈良田では十二月十一日を「松はじ節供」といって山からお松を迎えその他の地区でも「お松へーし」「お松節供」といってお松を迎えた。門松は正面玄関の出入口に二本立てるがチカラ木(力木)として栗の杭を二本打ってそれにしばりつける。栗の木を杭にするのは「繰りまわしをよくする」などともいう。
 門松を立ててからは正月の三が日まで年神様へ上げるのと同じ食物を松の枝にのせてお松様にも供える。
 一月七日、お正月さん(年神様)は天竺に還られるという。来年も又きてくれるように願い松を転ばす。松は明の方へ送り、芯だけ正月いっぱい残しておく。

厄日まち(厄払い) 

 男性の二十五才、四十二才、女性の十九才、三十三才を厄年という。男女ともに人生の節目をいうものである。特に男の四十二才、女の三十三才は大厄という。
 厄日まち又は厄払の日はところによってちがうが京ヶ島では正月二日に当年厄年の者が金を出し、厄除地蔵様に御神酒や供物をそなえ、厄除けを祈願し、公民館に村中集り厄除けを祝う。
 その他の地区でも米を集め、オカラクをはたいて神様に供え、厄除けを祈願する。
 昔は各家庭に親類縁者を招待し祝った。特に四十二の厄年の場合はオオバンブルメーだったという。

七草粥(鳥追い) 

 七草粥には春の七草を入れる。七草のなかでは芹が第一である。その家に四十二の厄年に当る人がいる場合、芹は使用しない。芹には四十二の節があるからだという。
 六日の晩、俎板の上に七草をのせて叩きながら「唐土の鳥と渡らぬ先にバタクサつん舞った」(雨畑)「七草なづなトンドの鳥とイナカの鳥と日本の橋を渡らぬ先にバタバタ」(茂倉)「唐土の鳥が日本のドイへ渡らぬ先に七草菜をば打ったりや 打ったりや」(奈良田)「唐土のトリといなかのトリと日本の橋を渡らぬ先にパタクサパタクサツンマタツンマッタ」(早川)と唄いがら七かわり叩く。七日の朝、七草粥をたくがしょっぱいものは入れずに煮る。

鍬入れ節供(ハタケウナイ) 

 正月の十一日を鍬入節供、ハタケウナイという。ハタケのカミサンまたはハタガミサマにオシンメを切って松の枝につけて立て、オソナエ、酒・茶・干柿等を供え、鍬・鎌などの道具をもち粟・白米などを「一粒万倍」といいながら播いてうない、供えものを下げて分けて喰べる。
 上下湯島ではこの日オカラクをはたき供える。又、茂倉では田オコシといって田の隅を鍬でおこし餅を供える。正月四日にアラクウネエといって畑へ粟を蒔くまねをするところもある。
 又この日はクラビラキといい、年の暮に桝に米を入れ、年玉の餅をのせてお倉へ納めておいたものを出して炊いて食べる。

小正月(ヤナギ飾り) 

 松の内も過ぎた十日前後で集落によってそれぞれ決められた日に、大若衆小若衆が道祖神の庭に集り総出で小正月のヤナギ飾り(ヤナギ立て)が行われる。
 小若衆はそれぞれ手分けして各戸から正月の書初を集めて廻り、大若衆が竹を小割にし、よくしなるようにしたものに書初を細かく切り、ところどころ色紙も加えてきれいに巻きつける。柳の枝のように長くし、しだれるように作るのが大変な作業である。これを柱にさして道祖神様の庭に立てて、十四日の夜のドンドン焼きを待つのである。(新倉)
 集落によって飾りつけも多少ちがうが、終った後、輪にして屋根にのせると火除けになるといわれている。以前は各部落で行っていたが、近年若い者の減少やら人手不足から飾りをしないところが多くなっている。

正月(オホンダレ・ハナ) 

 小正月のお飾りとして一月十日前後にオホンダレやケヅリバナを作り門松を立てた杭や、家や倉の出入口に二本ずつ結わえて二組飾り、十六日、ところによっては二十日まで毎日三度三度食物を進ぜる。又神棚や大黒様、諸神様にもちいさいものをかざる。
 オホンダレは二尺五寸くらいのカツの木の皮を削り、目鼻口ひげなど人の顔を描きシメ飾りをして立てる。(奈良田)
 他の集落ではカツの木の皮のついたままへ刃物で目鼻口等をきざむ。
 アワボ・アワッポ(粟穂)を作ったり、カツの木やコメゴメの木(下湯島)をうすく削ってハナを作る。
 これらはいずれも穀物が実って垂れた様を現すものである。

小正月(テッポー、ブクヅチ、オボコ) 

 奈良田では十四日のお祝といい、初節句を迎える子に親戚でお祝をくれる。男の子には桐の木で作った鉄砲、それには「福貴長命 おめでたくかしこ」「百発百中の銃」などと書き模様もつけてある。その他男の子にだけ「ブクヅチ」(福槌)に餅を添えて祝ってやる。女の子には「オボコ」をくれる。昔は十二単衣の内裏の形に作ったという。オボコには松竹梅などの模様をあしらい「寿福長命目出度くかしこ」とか「福貴長命目出度し」などと書く。オボコは居間の床にかざっておく。
 これ等はカツの木で作るのが本式であるが、重いので殆ど桐で親戚のおじいさんや、おじさんが作ってくれる。殆どが親戚関係にある奈良田では貰う数も多い。

小正月(オカタブチ) 

 奈良田では十四日の晩男の子がお化粧して初めて正月を迎えた花嫁を打ちに行く。昔は着物袴で花嫁の祝をしたという。
 枝のあるカツの木の皮をむいて着色しきれいに顔を書く。角の尖ったところには女の性器を書いたり「福貴長命めでたくかしこ」などとも書く。村中の子どもが手に手にこの棒を持ち押しかけ逃げまどう花嫁を追い、座敷でも納戸でも探し廻り「オーカタオカタ なんぽになりやる 三十三になりやる 三十三のよこはべべのはた虫くい虫くい」と唱えながら腰から下をぶつ。頃合いを見て主人が「どうもご苦労さん」といって団子や菓子をくれる。
 三十三の厄年になる前に早く元気な赤ちゃんを生むようにとの祈りがこめられている。
 又初鹿島では太いカツの木をナナメに切ったところに子供の顔を書いたおかた打ちを作り、二人でかついだ太鼓を打ちならしながら新嫁のある家に行き、「お祝い申す申す」と云って新嫁の尻を打つ。新嫁は尻が痛くないように箕をあてている。子供たちはご祝儀をもらって帰るが、いずれも元気な子どもを早く生むようにとの願いをこめたものである。

小正月(飾りダンゴ・タワラ他) 

 奈良田では山入りのとき伐ってきたダンスバラの木に餅や団子をつけ、十四日の晩こしらえ十五日に飾るが、その他の地区ではだいたい十四日に丸団子、マユダマ、タワラ、粟穂等を餅又は粉で作り、ダンゴパラやダンゴモヤ等と呼ぶ枝のしなやかな木、又は、カシの木の枝に刺して神棚や小正月樣に飾る。
 又、長さ二十センチ程のカツの木の上半分の皮をむき、頭部を十文字に割ったカユカキ棒を作り、神棚、ところによっては大黒様に飾っておきり、小豆粥を炊いてカユカキ棒でかきまわし、頭の割れ目に米つぶが多ければ水田が豊作、小豆、粟が当るといわれている。カツの木で作った箸で粥をたべる。
 又大黒様にはカツの木で作ったタワラを飾る。

小正月(月見) 

 奈良田では男の子がオカタブチをしている間に女の子はお化粧をして家内中で月の出のよく見られる小高い所へ行く。線香を立て、太鼓を叩き、お題目を唱えながら月の出を待つ。
 寺のそばの森を中心にして月が北の方へ寄って上がるとその年は陽気がよく(作物の実りがよい)下がって出れば陽気が悪いといって月の出る場所によりその年の豊凶を占う。
 黒桂では十四日の夜の月にうつる自分の影に首から上が映れば長生きをする。映らないと死ぬと云って子どもたちはおそるおそる影を映してみたという。

小正月(ドンドン焼き) 

 保部落では十四日の朝早くドンドン焼きを道祖神(ドーロク神)の前で行うが他の地区はたいがい十四日の夕方から始まる。
 各戸から集めた門松、しめ縄やモヤを燃し、長提灯に灯が入り、ドロンドロンと太鼓がなりはじめると、この日ばかりは早く風呂に入り、お化粧して着飾った老若男女が手に手に団子をもって道祖神の庭へ集る。
 ドンドン焼きの火はヤナギ飾りを照らし人々は虫歯にならないように願って団子を焼く。
 道祖神祭りは若い衆の行事であり、ところによってはこの晩若い衆頭の引継行う。
 茂倉では十五日の朝、ドンドン焼きの残り灰を家へもちかえり、茶わんを洗った水にまぜて「ヘビクルナ ナムカデクルナ オレワカジヤノ ムコドンダ」ととえながら家のまわりにまいてあるくとヘビやムカデが家の中へ来ないという。ドンドン焼きのダンゴをゆでた湯をかけてまわるところもある。

小正月(デクコロバシ) 

 長さ約四十センチ、太さ約二十センチぐらいの丸太の表を平にけづり眉毛・目・ヒゲを書いたデクを“お頭”が持ち、やや小さなデクを小頭以下五、六人が持ち、顔にお白粉をぬり眉毛も太く書き、ヒゲも書いて、お頭を先頭に前年結婚した家、初ボコのあった家、その年厄年に当る者のある家々を廻る。
 施主と若衆が相向いに座り、お頭が大声を上げて「オイワイナッテオクンネー」とデクを畳に転がす。他の小若衆も同様に転がす。予定していた額が入っていない場合、何回でも繰りかえす。施主はそのたび追加ののし袋を渡す。中を調べ予定の額に達したら、若衆一同が畳に手をついて「オゴッソウデゴシタ」と一礼して次の家へ廻る。
 この集落だけのめずらしい行事であるが近年子どもが少なくなり行われなくなったのは残念である。

山の神祭り 

 この日は山の神の結婚式だから山に入ってはいけないといい、山の神にはオミキを供え、梅の木の枝で弓を作り、矢を添えてシメをつけて上げる。奈良田では弓はカツの木や桑の枝で作りモトユイを弦に張り、家の庭先の立木等につるす。普通弓二本、矢四本で、矢はウラ切りの細い竹でつくる。オシンメイと米もいっしょに供え、上げた弓は十八日に子どもが下げる。
 又茂倉では弓は家族の数に一本余分につくり、一本は自分の家の神棚に供えておき、家族の数の弓矢は集落の上にある山の神の社に供え、一年間の家内安全と、無事に山仕事ができるよう祈願する。特に山仕事をする人達は同じ作業場の数人がそれぞれ集って山の神を祝って酒をのんだ。一月十七日行う。

ななえまち(観音祭り) 

 草塩のななえまちはお観音様の祭りで正月十一日から十七日迄七日間お寺のお観音様の部屋で行われた。
 当番が全戸から「おぶっく」用の米を集め、それを石臼でひいて七回分の供物用の団子とお飾りの「とり」をつくる。「とり」は八糎位の竹の先に鶏冠に赤く色付したちいさい鳥を五羽くらいつけたもので、家数だけつくって飾る。
 七日間は毎晩お寺に集りお観音様の前でお経を唱えたのち、子どもたちは帰りに供物の「おぶっく」をもらう。
 最後の晩は「とり」を一戸当り一本ずつもらってかえったが今は行われていない。
 茂倉では観音堂が集落の上にあり毎月十八日に年配の女衆が集りお経をあげ、もちよりの茶菓子でお茶をのみながらよもやま話に花を咲かせる。
 いずれも女衆の自由に話しあえる唯一憩いの場であっただろう。

庚申祭りと二十三夜祭 

 馬場では庚申祭りは「かのえ・さる」に当る日に行われる。夕方から集落内の子ども達が当屋の家に集り夕飯をごちそうになり、子どもが帰ったあと各戸一名の男衆が集り、一杯のあと夕飯をいただきながら、話しに花を咲かせる。
 夕飯がすむと長老が打つウチワ太鼓に合せてお題目を唱えて庚申様にお祈りをする。
 お題目が終っても男達は夜のふけるのも忘れて語りあったという。
 女衆は、二十三日に二十三夜祭という祭りがあり、当屋の家に集り夕飯をごちそうになってお題目をとなえ、年に一度の女衆の祭りとしてこの日ばかりは夜おそくまで語りあったという。いずれも村人の楽しいコミュニテーの場であっただろう。

天神祭り 

 奈良田の天神さんのお祭りは、小中学生が主体になり大人や若い衆もまじって頭屋の家に集り、菓子神酒を持ち寄り御飯を炊いて食べながら歌や踊りで楽しく過ごす。
 上下湯島でも子どもの行事として行われている。
 奈良田では長い提灯を二つつけて天神様を飾る。書初めを上げると字が上手になるといい旗にして上げる。裁縫が上手になり、思うことが叶うようにと、女子は赤色の布で三角の蒲団形に綿を入れて縫ったミミンコ(サルボンギ)を作って上げる。未婚の女性が思う人の各前をミミンコに縫い込めばその人と添えるといわれ、ひそかに思いを込めて奉納したとか……。
 大島の天神祭りは以前は旧暦二月二十五日に行われ、子供の疳の虫切り天神として有名で、祭りには参道に露店商が並び特に甘酒をふくべ型のビンに入れて売る店が多かった。近郷近在からの参拝客はあとをたたず、にぎやかな祭りであったが近年時代の流れとともにその盛況さもなくなり、祭典も新暦一月二十五日に変り村人により形ばかりの祭りがとり行われている。

弁財天祭り 

 小縄と柿島の間の早川の中島に祀られており、古昔洪水の際、雨畑方面から弁才天(木像)が流れてきてこの中島に打ちあげられているのを柿島の者が見つけて祀ったと伝えられる。
 祭りは一月二十六日に行われている。昔は早川の川瀬が柿島寄りの時は小繩で、小繩寄りの時は柿島で司ることにしていたと云われるが最近は交互に行われ、寺の住職の読経のあと、もちよりの一品料理でオミキをかたむけながらたのしいひとときをすごす。
 子どもたちは「おぶっく」をもらいにむらがる。近年は人寄りも少なく淋しくなっている。

節分 

 節分にはバリバリンの木(榧の木)の小枝を燃しながらホーロクで大豆をいり、升に入れてまず神棚に供え、主人または長男が年男になり豆まきをし各人が年の数ほど豆を食べる。
 またスイノー(ウドンスクイ)にパリバリンの小枝をさし玄関の入口、ところによっては庭の木にかけておいて鬼をだますという。
 又主人の箸を割ってイワシの頭を刺し「鳥の口を焼モグラの口を焼け」等農耕に害をするものの名前を上げ、ツバをはきかけながら焼いたものを玄関先等にかけておく。
 又、この日炉の灰へ豆を十二粒埋めておきこれを一月~十二月とし、その焼け具合で一年の各月の天気を占うという。

金毘羅社まつり 

 黒桂集落の北端、宝竜寺の上の尾根に金毘羅様が祀ってある。
 金毘羅は金刀比羅(コトヒラ宮)の俗称で仏教の十二神将の一で航海の安全を守る神とされているが、どうして海のないこの地に祀られたかは定かでない。
 お祭りは旧暦一月十日、三月十日、六月十日、十月十日の四回、南組・原組・大門組・沖中組の順に当番に当り、各戸から茶わん一ぱいずつの米を集め、オブックを作り、供える。多くさんの酒もあがり、宝竜寺住職の読経に合せ一同も唱える。終って集まった人たちや子どもにオブックが配られる。
 黒桂ではこの金毘羅様を祭るので「ヒョー死」(山仕事での事故死)が昔からないという。
 町内ではこの他に茂倉、京ヶ島などに金毘羅宮を祀ってあるが祭りは行われていないようだ。

祭り(お神輿) 

 大物主神命を祭神とする茂倉国玉神社の例祭は日暦二月十七日春季、十一月十七日秋季で行われていたが、近年新暦三月二十一日と十一月二十四日に変った。
 春祭は特ににぎやかでお神輿がでる。若衆頭を中心に前日シメ縄張りや神輿の飾りつけやら準備をする。
 当日は湯立ての神事等に続いて氏子や来客の見守る中を神社の境内から道祖神の前までの間を若衆がハッピワラジ姿でねりあるく。
 茂倉の場合、神輿は担がずに腕でかかえてねりあるく。又、竹の棒二本を半紙で巻き麻ひもで結んだものを持った小若衆が神輿の先に立ち帽子等のかぶり物をつけている者を注意してまわる。これは神様に失礼だからだという。

妙法講 

 日蓮宗の寺々の信徒からなる妙法講がある。
 春と秋のお彼岸には講中がお寺に集まりお題目を上げる。
 三里地区では春と秋の彼岸にそれぞれ日を決め、講中全員が早川・大原野・新倉・茂倉の寺をまわってお題目を唱えたが近年おこなっていない。
 又、本建地区でも赤沢・角瀨・高住のお寺をまわって彼岸題目を唱えている。
 地区によっては冬場の雪の日や雨の日に各家を二回唱えてまわったという。

祭り(お神輿) 

 誉田別命を祭神とする早川の八幡大社の春の大祭は旧暦二月十五日に行われていたが近年、新暦三月二十五日に変更された。
 春祭りにはお神輿がでる。若い衆が前日飾りつけたお神輿に神官の手により御神体が移され神社の周辺を三回まわったのち、「ミコショ ミコショ オコショ オコショ」とかけ声も勇ましく、神社からゴハンギョ(道祖神の前)までねりあるく。紋付袴の村役、氏子総代・神官・氏子の粉するカラカンヌシ(神官の衣装をつけている)等があとに続く。
 ゴハンギョではゴザを敷き紋付袴の人達が正座して納めの神事をする。続いて集まった氏子に向ってモチが投げられる。
 神輿はねりあるきながら神社へと帰っていく。

祭り(お神輿) 

 祭神を大己貴命(素盞嗚命)とする新倉山王神社の祭典は旧暦二月十五日に春季大祭、十一月十五日に秋季大祭が行われていたが、近年は新暦で春を三月三十日、秋を十一月二十五日にとりおこなっている。
 春季大祭にはお神輿がでる。以前は露店もでてにぎやかにとりおこなわれた。
 お神輿は若衆の手により出される。二十五才の者が祭典部長、二十六才(前年の部長)は中老といい祭典部長の相談役である。
 数人の祭典部長を中心に、前日はお神輿の通る道々にシメをつけた縄を張り、又、神輿の飾りつけをして準備を終る。当日は午後から神事に続いてハカマ・ハッピ・ハチマキにワラジ姿の若衆のオコシ・メンショのかけ声とともにお神輿はくりだされる。

お節句(桃の節句) 

 桃の節句は旧暦三月三日(現在は四月三日のところが多い)で女の子を祝う節句である。初めて迎えるこの日を初節句といって親類はその子のためにおひな様や「かまんばー」「トリ」「ひし餅」等を贈って祝う。
 おひな様をかざらずにしまっておくと箱の中で泣くといって古いものでも全部飾った。又、おそくまで飾っておくとその子が嫁に行くのがおそくなるともいい、おひな樣は早くから飾って終ったら早くかたつけるようにした。
 お供え物は草餅や、粉餅をつき円盤にした「かまんばー」鳥の形をつくったもの等に桃の切花をも供えた。

春祭り(子ども神輿) 

 草塩・京ヶ島の土神を祀る。山王権現・八幡社の春の祭典は四月三日に行われる。
 神社は京ヶ島にあり、境内の北西隅に男杉が、五メートル程はなれたところに女杉が立っていて「夫婦杉」と呼び、町の天然記念物に指定されている。
 社務所は草塩にあり、祭りの当日は両区の区長はじめ、氏子総代、子どもたちがここに集まり、みこしの準備をする。
 神事のあと、両区の子どもたちは元気に草塩から京ヶ島の神社まで神輿をねりあるく。

お釈迦祭り 

 四月八日はお釈迦さんの祭りである。
 奈良田ではこの日子ども達は山へ行き、ツツジの花などを取って来てお寺の入口や廊下にいっぱい飾る。また瓶をもってお寺に行きお釈迦さんに甘茶をかけその甘茶をもらって帰る。
 黒桂では寺のまわりに甘茶の木が二株ありその葉で甘茶をつくってくれる。子どもたちは小さなやかんを持って行き、本堂の前廊下に安置されたお釈迦さんの頭の上から甘茶をかけてから甘茶をもらって帰る。
 旧暦の四月八日なので調度ウノ花がまっさかりで、この花をとってきてほとけ様に供える。又、大豆を炒って粉といっしょにまぜながらまるめたものを、“お釈迦の頭”といって供え、当時はけっこうおいしくたべた。

お節句(端午の節句) 

 端午の節句は旧暦五月五日で男の子の出生を祝う節句であるが、最近は四月三日に男女合せて行っているところが多い。
 生れた子どもの母、又は、父の実家から両家の紋入りの幟りが贈られ、鯉のぼりや武者人形が親せきから届けられ、五月晴れの空にさましくはためく様は男の節句ならではの感がする。
 この節句に「かしわまん頭」がつくられる。かしわの葉に包むところもあるが、ほうの木の葉、とちの葉に包むところもある。
 菖蒲湯をわかしたり、菖蒲・すすき・よもぎを束ねて家の軒に三ヶ所さす。又、倉や物置の軒端にもさして魔よけとする。
 子どもたちは、まん頭をほうばりながら手作りの凧上げに夢中になる。

清正公祭り 

 馬場の車道から尾根道を十分ぐらい登った所に馬場老平両区で加藤清正公を祀ってある。町内で清正公を祀ってあるところはめずらしい。
 祭日は旧六月十五日(現七月十五日)であるが、十四日、子ども達は沢山の雪洞の張りかえをし、思い思いの絵とか字を書いて準備をし、夕方、畑中の尾根にある参道のいたるところに置いてあるく。あたりに夕暗がせまる頃、いっせいに雪洞のローソクに火が入り、山々のシルエッと調和して美しく夏の夜をかざる。
 明けて十五日、村人たちは総出で社に登りお経をあげたのち、それぞれ持ち寄りの料理を肴にオミキをのむ。のむほどに酔うほどに座は楽しく、急傾斜の道を這って帰る人もあるとか。子どもは「オブック」をもらうたのしみで登る。

祗園祭(テンキョウサマ) 

 昔は旧暦の六月十五日に行ったものであるが最近は新暦の七月十五日に行われている。
 牛頭天王は津島様の祭りで、この祇園祭りと前後して農休みがあり、麦の取入れ、田植の一段落した骨休みの夏祭りであった。
 京ヶ島を除く都川の各集落、又、早川ではこの日子どもたちが「テンキョーサマ」(手造りの神輿)をかついで「テンキョー テンノー ゴズテンノー」とくりかえし、はやしたてながら各戸の庭を行きつもどり練り歩き、御祝儀をもらうと「ショーバッタ ショーバッタ」と言って神輿を地面へたたきつけて壊してしまうが、また来年は修繕して用いる。ご祝儀は胡瓜であり、袋をかついだ子どもがあとをついてまわる。

施餓鬼と虫おくり(虫封じ) 

 八月一日~八月十七日までと集落によって日はまちまちであるが、この日は村中お寺ヘ集りお経を唱えて施餓鬼をする。そして水でヒョージニ(水難者、入水自殺者)をした人の供養に供物、青竹に紙の旗をつけたもの、塔婆を川に流す。
 施餓鬼に経文の文字も五字ずつ書いた色紙の小旗を多くさんつくり、サンダワラに米飯を盛った上に立てて供えるが、この小旗はもらって帰り、大根畑、菜畑などに立てれば虫がつかぬといい、これを「虫送り」とか「虫封じ」と呼んでいる。(新倉)
 茂倉では子どもたちが麦束に火をつけ振りまわしながら畑の細道をかけまわり虫追いをする。

雨乞 

 夏の土用前後には毎年のように日照りが続き、急傾斜耕地の多い、ほとんどの集落は旱魃になやまされた。一粒の雨でも降ることを願って雨乞は町内各地で昔は行われた。
 神社の境内、それでも降らない時は御殿山(茂倉)、道祖神の庭(新倉)、北の池七面堂、それでも降らない時はお池の掃除をして(榑坪)、老人たちはお寺に集り、若者たちは白根に登り(奈良田)等々各地区でそれぞれ決められた場所に集り雨乞題目を唱えたり、山頂に火を燃してそのまわりを先達を先頭に行列をつくりカネや小太鼓を打ちならし、先達の先唱のあとに全員で「アミョー(雨を)降らせたーまいなー」等と唱える。
 山畑農業の豊作への願いと併せて慰安、休息のための行事でもあった。

盆行事、投松明(ナゲデーマツ。ナゲダイマツ) 

 ところによって多少のちがいはあるが、八月の十三日から十八日頃までお精霊様の迎え火、送り火のショーリョービとして火を燃す。
 川原に十米くらいの竹、又は木をたて、先端に麦わらをとりつけたもの、ところによっては川原の大きな石の上に麦わらを置き、松の木の油分の多い部分を束ねてたいまつを作り火をつけて振りまわし麦わらめがけて投げる。
 多勢の子どもたちが投げるたいまつの火が麦わらにつき、夏の夜空を赤々とこがす。
 子どもたちは口々に次のように唱えながらたいまつを振りまわす。

 ショーリョーピ マイヨービ ナゲタイマツ ヤカンヨ(下湯島)
 ヒャーカン 火をつけろ(新倉)
 カラカンヨー カラカンヨー(赤沢)

盆行事(盆飾り) 

 以前は旧暦の七月十五日を中心に行われていたが現在は八月十五日である。
 十三日を「花とり盆」ともいい、盆花(ススキ・ゼンバナ・トチナ・ナデシコ等)をとってくる。又、仏様が乗ってくるという馬をつくる。馬は胡瓜・茄子・唐もろこしなどで作り、脚はススキの茎で作る。曼陀羅・御本尊の掛軸の前に机をおき、位牌の前にススキで敷藁をならべ、馬を二頭おく。背中には鞍だといってなまのうどんをのせる。
 梨・りんご・西瓜・ぶどう等の果物を供え灯明をつけ線香を上げて、ジュウマンオクドーから来るという仏様を“迎え火”をたいてむかえる。奈良田では樺の皮をたく。十六日に仏様を送る

八朔(ハッサク) 

 旧暦八月一日を八朔といった。盆は旧暦七月十五日であった頃のことである。
 この日には「別れまん頭」を作る。昔は麦の粉でつくり、あんが入っていた。またこれを「泣きまん頭」ともいったが、盆踊りに明けくれた楽しい七月も終り、いよいよこれから夜長になり、毎夜、夜なべをしなけれぱならないからこう呼んだ。
 又、この日を「おおぎシャバキ」ともいい盆踊りをする。盆の間、踊りにつかった「おおぎ」がもう込要ないのでやぶり捨てる日だといって夜おそくまで踊る。
 奈良田では八朔を「流れ日」といい農道を修理しボタモチを作った。上湯島ではご馳走を仏壇に供え、寺でお題目を上げる。

クジ神様と祭り 

 五箇地区の栗山の頂上に山住神社があり人々はクジ神様と呼んだ。昔、兵隊検査で甲種合格になると二年間の兵役の義務があった。
 ところが甲種合格しても軍隊の必要数外は抽せんで入隊しなくてもいいという制度があった。これを「甲種合格クジのがれ」といって合格者のだれもがクジのがれになって軍隊に入らないことを望んだ。
 このクジ神様は霊験あらたかで参拝すると「クジのがれ」になるといってお参りする者が多かった。
 祭典は八月十七日で、当日の呼びものは草角力で、近郷近在から集った子どもから大人まで山頂の社の前は終日賑わったが、今はおとずれる人もなく昔の面影はない。
 「今年しゃ行かずよ クジ神様へ 可愛主さんの徴兵検査」という盆唄が残っている。

十五夜(十三夜) 

 旧暦八月十五日の満月の夜を十五夜という。ほとんどの集落でサツマ芋・里いも・大根等の秋の野菜・成り果物・団子を供え、月の祭りをする。
 小さい子どもたちは各戸をまわり次のようにいって供えものを分けてもらう。

 ○お月のみをくれちゃーよ(赤沢)
 ○イモーオクレー(雨畑)
 ○ヨーオサンヤー オクレー(黒桂)
 ○アーゲトクレー サゲトクレー(早川)
 ○ヨー ヨニョー オクレー(新倉)
 ○十五夜へシンゼトーものーおくらい(上湯島)

 少し大きくなるともらって歩かず棒の先に針金や釘をつけ供え物を刺し、失敬してあるく。又、この晩にかぎって成り果物を盗ることも大目にみられ、子どもたちは夜おそくまであるきまわる。

大原野七面堂の祭り 

 この七面堂が何年頃のものかさだかではない。言い伝えによるとご神体は七面山の本山より隠居した親七面像だと云われている。
 祭りは旧暦八月十九日に行われ、当日は村中の人々が七面堂に集り、お題目を唱えたあとお開帳を行い七面樣のお姿を村中の者がおがむ。
 その後酒がまわり、のむほどに話しに花を咲かせる。年に一度のお祭りは午後二時頃から、若い衆の奉納角力にうつり、賞品も沢山でて賑やかに夕方まで続く。夜は青年の芝居や映画等がおこなわれ、祭りの招待客や近郷近在からの見物客で大変賑やかだったが、近年若い人はほとんどいなくなり祭りも年寄りだけが集り、新暦九月十九日に行われている。

秋祭り(お神輿) 

 老平の秋祭りは秋分の日に行い、若い衆によりお神輿が出る。
 集落の上にある神社で家内安全、豊年万作祈願の祭典のあと、みこしは元気よく村中をねりあるき祭りをもり上げる。
 老平の家々をねりあるいたあと隣接の馬場へもねっていく。
 子どもたちは、造花でかざったタルみこしをかついで、大人にも負けじと、大きなかけ声でやはり村中をねりあるく。

北の池大明神の祭り 

 榑坪、円柳寺から参道を千三百米程登ったところに周囲七十米ぐらいの池があり、そのほとりにカヤブキ屋根のお堂があり、ここに北の池大明神が祀られている。
 ご神体は身延山法主第三十一世一円院日脱上人の作によるもので霊験あらたかだという。
 祭りは旧暦の九月十九日であるが、十八日夕刻から参道に三十六個の灯籠に火が入れられ提灯にも灯が入り、日暮頃より多数の善男善女で賑わい、呼びものの餅投げが行われる。
 明けて十九日はお堂に集り、お題目を唱え祭りを終る。近年例祭は、新暦十月十九日午後からになり往年の賑わいもなくなった。
 昭和三十四年の台風により日脱上人真筆の「七面山北の池」の顔が強風により行方不明になったのは残念である。

十日ン夜(トウカンヤ) 

 旧暦十月十日の夜を「トオカンヤ」といい、この日、畑神サンが天竺に帰られるという。米や粟をまぜ好物のオカラクをはたいて俵にしらえ桝の中に南天の葉を敷きその中へ入れて供える。
 この日畑神さんは畑から家に来てお祝してもらってからオカラクを背負って天竺に帰られるという。
 畑の神さんがいる間に麦を播き上げてしまわなくては良い作が取れないといって、この日までには麦まきを終えるようにした。
 新倉ではこの日に“播き上げの餅”を搗いて祝った。

エべス講(エビス講) 

 十月二十日はエベス講である。キビのボタモチ又はオコワを作り、タカガミサマに上げる。
 茂倉では十九日をヨイエベス(宵恵比寿)といってソバを食べ、二十日にはオコワ・ボタモチ等をつくって祝った。
 新倉では、エベス様が春のエビス講に天竺から来て夕方家へつき、一年中守ってくれて秋のエベス講には朝出かけて帰るといって、春は夕方オコワを供えて祝い、秋は朝供えて祝う。
 春は正月二十日に初エビスといって祝うが、いずれもエビス様と大黒様の御縁日だという。
 エビス講の日は金を使ってはいけないといって日に買い物をすませるという。

水神まつり(カービタリ) 

 旧暦十二月一日を川ビタリと言って水車(クルマヤ・ツキヤ)のお水神様の祭りをする。昔はどの集落にもかならず一~三ヶ所の水車があり、水車の数の組に分れて世話人を中心に維持管理を行い、順番に使用していた。
 この日は水車を休み、水仕事はしない。
 奈良田では水車が三ヶ所あり三組に分れて祭りをする。井戸ヘヒイナ(神明)を立て世話人が神酒を一升買い、水神様に上げてから(ゴクローメイ)にみんなの衆に飲んでもらう。
 そのほかの集落でも水車小屋にしめ縄を張り、水神様にオミキを上げ、ボタモチを作って供えて祝った。

風の神送り(風祭り) 

 風祭りといって村に風が強くあたる方向にオシンメを下げた縄を張りめぐらし若竹で筒をつくり神酒を供えて風の神様にこの一年を風の害もなく無事にすごせるよう祈る。(六月二十三日馬場)
 他の集落でも十二月八日カゼの神送り(風・風邪)をする。早川では昔はヒノキの枝で小屋の形を小さく作りその中へオカラクを入れ、坊様も行ってお経をあげ川端へ置いてきた。
 茂倉では棒の先にシメをつけて家の前や道のかど等に立てておくと、子ども達がそれを集めて行き、坊様がお経を上げ、がれヘ捨てた。
 新倉では子どもたちが「風の神おくり」と書いた短冊を枝につるした青竹を、それぞれかつぎ「カーゼノカーミョーオークリナー」とはやしたてながら坊樣の先導で村中をまわり、最後に村はずれの茂倉川へもって行き捨てる。家へ帰るまでうしろを振りむくと神の風がついてくると言って子どもたちは走って帰った。

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