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焼畑について


食糧の自給をした焼畑農耕 (深沢正志著 『秘境 奈良田』より)


焼畑(あらく)

 奈良田の「焼畑農業はいつの時代から始められたのか詳かでないが、少なくとも幾百年の間幾世代にわたって、主業として続けられてきた。昭和三十年山梨県の野呂川総合開発の一環としての早川水系発電所の建設事業によって、焼畑農耕の終わりをとげたのである。
 それまで村の交易も交通も、三里から五里の峠にかけられていたが、発電工事のために、自動車道路が「あっ」というまに開さくされた、近代的な建設機械がうなり出し、若者たちはこの工事にかり出され、高い賃金が支払われるようになり、家計の主体を変えるようになった。
 自動車が入るようになると、それまで運搬できないままに宝の持ち腐れにも等しかった材木の丸太が高値で取り引きされるようになり、急激に山の価値が見直されるようになった。焼畑に植えられた植林は、十五年を筆頭に立派な植林になっており、建設工事用の材料として注目されていた。
 一方労働力についても建設会社に雇用されていた全国各地の労務者がのり込んだが、地元の者も老若男女それからそれえと雇用され、家計の収入源に大きな変化があった。
 収入は少なく、しかも現金収入につながらない焼畑農耕は、誰も続けようとしなかった。しかも伝統に固執していた老人たちまでが、ただあっけにとられて黙って見守るばかりであった。
 こうして奈良田の焼畑は、昭和三十年を境に消滅していった。
 このことは、単に奈良田だけにとどまらず、日本における焼畑農耕の大きな変転期として注目すべきものである。
 というのは、かつて日本における焼畑農業の典型地として知られていた九州五家荘や、四国の祖谷村などがその形態を変えてから久しく、おそらくは昭和三十年まで本格的な焼畑農耕を続けた奈良田こそ、原始農耕を堅持した最後の部落となったのではないかと思うのである。
 しかしながらその奈良田にしても、昭和三十年を最後に大きく変転してしまった現在においては、焼畑農耕を現実な問題としてとらえることは不可能であり、もはやその当事者であった部落の人たちすらも、焼畑をめぐる汗と涙の苦しかった思い出は薄らぎ、永い世代にわたって、はぐくみ育てられた開拓魂も、情緒すらも、今や失われようとしている。幸い私は幼年期を焼畑の中で育ち、焼畑をめぐる情緒の中ではぐくまれただけに、焼畑の作業内容も、情緒も、終生忘れ得ないものである。
 すでに多くの人たちから忘れ去られようとしている焼畑農耕の実態を、多くの紙面をさいて記録することに、私自身いささか危惧の念を抱かないでもないけれども、民俗的な多くの記録というものは、年を経るにしたがって集収が困難になり、数少ない資料によってのみ想察するの結果になることをも知っている私としては、現状としては無意味なことであるかもしれないが、後世における同好の士に対しても、また私たちの子孫に、たくましい先祖の残した開拓魂や、勤労精神を伝える一つの手段としてでも、私のこの小著の中で、最も多くの紙面をさいて「あらく」の実態や生活を記録しようとするものである。


奈良田の焼畑

 「奈良田は府より十三里、高尾山の奥地、往時後奈良帝崩御、御霊柩を当国に下し鳳凰山の麓に葬り奉り、其御柩を舁奉り京より下りし人の子孫此村に残り住む(中略)山中にて塩を需め難し、霊水にて塩の出る所あり、是を塩の井と云、此村に米は出来ず、多く出るものは粟稗なり」(裏見寒話)といっているように、奈良田には水田はなかった、昭和の初期に、稲を試作したことがあったが、渓谷で日照時間が短かく、水温の低いこともあって、実らないものが多く、失敗に終わったようである。
 永い世代にわたって、粟、稗、藁麦(そば)を主食としてきたが、わずかな畑(かいと)から大麦を得るようになって雑穀に麦を混ぜ、戦時中主食の配給制度になってから、日常の主食に米を混ぜるようになった。普通畑は一戸平均約二反三畝歩(明治十六年山梨県地誌稿本)と、極めて低く、昭和になってからもこの面積は変わっていない。
 この狭あいを補なうための必要性として、広大な山林を畑にかえた焼畑が発生し発達したものと思われる。
 この焼畑は山林を伐採して焼き、その灰を肥料とするもので、地味のやせている所から、普通畑に比較すると、その収穫量は低く、広大な面積を必要とし、一戸当たり平均焼畑面積は一町三反歩(大正八年西山村取調書)にも及んでいる。この焼畑に、粟、そば、稗、大豆、小豆などの雑穀を三カ年間にそれぞれ耕作する。四年目には林地として切り替えられ、母年新しい焼畑が作られることになるので、一年に三カ所から四カ所の焼畑が経営されている。しかもこの周期は十六年で、字ごとの集団地も固く守られている。
 先に述べた「本格的焼畑農」だというのは、この周期の厳守であり、集団性であり、主業であるところにある。その耕法もさることながら部落全戸が出作りを主としたことにあると思うのである。このことは後に述べるけれども、農繁期ともなれば部落の全戸が入口の大戸に、薪の大丸太を建てかけ、留守を示して、山小屋に移住するのであって、これほどに規則正しく生業としての焼畑農耕を昭和三十年代まで持続した地域は、私の知り得た範囲では、他にはなかったのではないかと思うのである。


焼畑の周期と場所

 焼畑の周期は十六年であり、たまには休耕地があって、これを「ひとけ休み」といい、樹齢は三十二年になる。「ふたけ休み」ともなれば、もはや樹木は大きくなり手に負えなくなって「そうり」になるのであるが、このそうり(草里)は、全国各地に「そり」「それ」「あげ」などといって、総合的には焼畑を意味しているようであるけれども、奈良田の場合には、新開墾地という意味が強く、三十二年以上を経過したら、新開墾地として扱われることになるのである。
 したがって、どこを最初にするかは判明しないが、昭和三十年を最後として逆算していけば、奈良田の焼畑の字順は次のようになる。

    字名 小字(俗称)
  (1) 笹 山
 
おおびら•ぶどーくぼ
  (2) 乙森山
 
ひなたもり ひなたばたけ
  (3) 下 島
 
にしどや•ひがしどや
  (4) 甲森山(広河内)
 
おいのざあ・あかや
  (5) 甲森山
 
しぶさわ・しぶ
  (6) 甲森山
 
しぶさわ•へびじま
  (7) 下 島
 
むけんやま•うえのたいら
  (8) 大崩沢
 
おおかれんさわ•たらじ
  (9) 上の山
 
おおがれんさわ•くりしろ
  (10) 後草里
 
はたけがれ•くりしろ
  (11) 嵐 山
 
なかばたけ•やけごや
  (12) 中 山
 
したなかやま•うえなかやま
  (13) 鰍 水
 
しょのしま•かじかみず
  (14) 鰍 水
 
うすぎざわ•ぬるじゃあら
  (15) 造札満 うすぎざわ かあぐるみばし


 この焼畑は部落に近い所は五百メートル、標高九百メートル、遠い所は八キロメートル、の標高千五百メートルまでに分布している。


焼畑農業の地位

 焼畑農耕が主業であるか副業であるかにかかわらず他の産業との関連からみると、二つの形式に分けられる。まったく他の産業に関係なく純粋な農業としてのもの、森林を造成することに主体があって、副業としての焼畑である場合が考えられる。
 奈良田における焼畑の地位は前者であって、食糧を得るだけのものであった、焼畑の十六年周期を一回休むと「ひとけやすみ」になるので、焼畑へ植えられた樹齢は三十年にもなって、用材として利用できるまでになっているのに、奈良田では木材を自家用材以外に利用して収入を得るためには、川を流送するより他に方途はなかったが、富士川までの流程が長いこと、大正末期に早川の下流に発電所が建設されて流送ができなくなったことから、木材は宝の持ち腐れでしかなかった。
 まして焼畑へ植えられた材木では、なんの用にもならず、土砂防止用に使うもの以外は、苦労して集めて焼き捨てるよりほかなかった。
 こうして幾世代を営々として続けてきた焼畑にも、地方自治の目がそそがれるようになり、いつのころから始まったことか定ではないが、焼畑に対しても行政上の制約があって、制限地開墾願いというのを県知事に出し、許可の指令があってから作業に入ることを建前としていたが、実際には法制上の手続きは青年団に委託して、許可のあるなしにかかわらず作業は進めたようである。
 焼畑に法制上の規程を適用したものの、多くの矛盾もあった。それは焼畑というものの性格や歴史的な背景といったものを、まったく考慮に入れていないことであった。
 植林地を開墾するからということで制限地開墾願いを提出させておきながら、二年目の植林に対しては、同じ県から「水源涵養造林補助金」が交付された。この申請手続きは、現地の実測図を添えなければならず、一般の農家にとっては難しいものであった。そこで考えられたのが、青年団への事務の委託であって、制限地開墾願いから造林補助の申請、造林地の検査官の案内などすべてを青年団が担当した。
 このように、法則上に乗せられた焼畑であったけれども、造林に対する補助金が交付されるという恩恵があり、それが若衆組から脱皮した新青年団の大きな収入源ともなったのである。


焼畑の収益と被害

 もともとやせている山の傾斜地を切り開き、木の葉や枝を焼いて、その灰を肥料にして雑穀を耕作する焼畑であってみれば、「かいと」の普通畑に比べると、焼畑の収益は低かった。それを補うためには広い面積を必要としたので、一ヵ年一戸当たりの平均面積は約五反歩、三年間継続すれば一年の耕作面積を一町五反以上を経営することになる。
 地味の上からも必ずしも平均化はしておらず、字によりまた地形によっても、各戸の焼畑間には、かなりの格差は見られたが、天候に恵まれ害虫の被害さえなければ、平年作の一反歩当たり「あらく」の粟で八斗。「くな」の小豆で四斗ぐらいの収穫があった。ところが「あらく」の不作ともなれば、収穫皆無という年さえもあって、豊凶の差は甚だしいものがあった。
 この凶年は特に「あらく」に多く現われる現象で、天候的には播種期の六月から七月にかけて梅雨が永く続き、夏の気温が低い年は、決まって不作であった。また害虫には「じむのしよう」(夜盗虫)というのがあり、時には全滅に近い被害を受けることがあった。じむのしょうは毎年一定してその猛威をふるうというのではなく、散発的に大発生した。これがいったん大発生してしまうと、防除のしようがなく村人は老人女子を中心に、寺に集まって虫送りの題目でも唱えるだけであった。昭和十年ごろになって、県の指導があり薬品による駆除を試みたが、費用と労力の上で完全に駆除することはできなかった。
 そのほかには鳥獣による被害があるが、これは「わな」や鉄砲による駆除や、人の髪を焼いたものを周囲に置いて防ぐなどの手段で、結構効果をあげることができた。
 このような天災にしろ、鳥獣、害虫の被害にしても、二年目からの「くな」や「ふるくな」になると影響の少ないことが、せめてもの救いであった。


焼畑への植樹

 四月の上旬から中旬にかけては山にはまだ残雪があり、時には雪の降ることさえあるしかし春の息吹は進み、地面の氷も解け「ふきのとう」などが顔をのぞかせる。
 こうした早春のころ(奈良田の春の訪れは遅い)に、焼畑最初の作業として、焼畑へ植える実生の苗木を採取するために、男も女も山へ入る。おもに「はんのき」や「からまつ」の二年生のものを採るので高い山よりも谷間が選ばれる。採取した苗は仮床に下しておいて、目標の本数に達したら、四月の下旬から五月にかけて植林する。
 植樹の目的は、地味を肥やすこと、幹を利用して土砂の崩落を防止することにあるので、樹種は「はんのき」を第一として、次ぎに「からまつ」がよいといわれている。「はんのき」は葉の肉も厚く、落葉による肥料としての効果もよく、開墾に際しても地下に張っている根が割合にもろく「とうが」による「うない」の作業が容易であること、また焼け残った幹や枝が、山小屋での薪に適していることなどから、焼畑への植樹に最も適している。ただ注意を要することは、外見のほとんど同じ「はんのき」の中にも二種類あり、「まはんのき」は以上の条件を備えているが、「しろぼい」になると根の張り方が細かく強いので「うない」作業に余分の苦労がかかることから嫌われる。「からまつ」は、地味を肥やすことも、根の張り方も「はんの木」ほどではないが、ほぼ条件を満たしてくれるので利用された。天然の苗木を採取するのは「からまつ」の方が難しかったが、昭和の初めごろになると、長野県などから購入することが考えられ、苗木の入手が容易になったことから「からまつ」が多く使用されるようになった。
 植林はなるべく密植しておかないと、次の周期までに「かや」などの雑草がはびこって地味がやせてしまうので、林相をよくするための考慮がはらわれた。植林した年を含めて二年間はその間へ耕作されるので、木はよく生長し、三年目の手入れの必要はなかった。その後は放置されたまま十三年を経過すると、木々は両手で抱えるくらいの大きさになり、秋には伐採され再び焼畑になるので、切替畑ともいわれた。


焼畑をめぐる信仰と祭り

 日本の風土には、あらゆる所、あらゆる物に神仏がおられ、庶民は庶民なりの信仰があって、生活の支えになり文化の中心をなしたのではなかろうか。
 焼畑には「畑神様」がおり、一般の山には「山の神様」がおられて、それぞれ支配されているものと信じられ、生活に直続するこの二神には特に敬けんの念が厚かった。
 正月十一日の朝「はたけうない」の行事で畑神様を天からお迎えするというのである。正月に歳神様とは別に、小黒柱などに松に注連(縄)をつけてまつり十一日の朝この松をご神体にして、家の近くの畑に立て、餅や「おからく」「お饌米」に酒を供える。たいてい雪の中であるが、そこえ饌米を蒔(ま)いて、注連をつけた鍬で「ことしのあらくはやっこいやっこい」と唱えながら、家中代わるがわる雪を耕す。別に「鍬入れ節句」ともいわれるゆえんである。この朝から畑神様は秋の十日夜まで畑におられる。供えものの「おからく」というのは、生の米や粟を水で搗(つ)いて丸めたもので、神様にだけ供えられる。これは一般には「しとぎ」(粢)といって、昔から神供えの穀物として知られている。
 奈良田の生業は焼畑と曲物作りである。その年の焼畑の豊凶は、村人にとっては重大な関心事である。小正月十四日ともなれば、道祖神祭りを中心にしたにぎやかな行事が繰りひろげられるのが、農山村の通例であるが、昔から道祖神のなかった奈良田の小正月は、甲州の村々でも特色あるものであった。墓に参り、月見をし、人形や鉄砲などのおもちゃを乳児に贈ったり、「おかたうち」をするなど、おおよそ静かななかに信仰にみちた行事が行われる。夕方月の出る前に風呂に入って身を清め、子供たちや若者はきれいに化粧して月の出を待つ、おとなは部落の西側に二つの組に分かれて、太鼓をたたき線香をたいて題目を唱えるうちに、大きな満月があがる東の上の山の頂きから、北へ一本木を越えたところから月が出れば豊年、南へ下がれば凶年だといわれる。
 月の出る位置と豊凶とどういう関係にあるのか知るよしもないが、天候によって作物に影響をうけることは、現代でも立証されている。天候の占いは節分の夜行われる。「福は内鬼は外」とまかれた豆の残りを、囲炉裏(いろり)火の灰の中へ十二粒を並べ、その焼け具合で占われる。まっ白になれば良、黒く焦げれば雪か雨、しかも一、二、三月の雪は豊年、七、八月の雨は凶年だと信じられていた。
 三月下旬のまだ農作業の始まらない時期には、除けの送り題目が数日も続く、焼畑の粟にとって大敵である「じむのしょう」(夜盗虫)の虫送り、風送り、鼠送りなどである。この送り題目は老人と女が寺に集まり幣束の「ご神体をまつって題目を唱え、夕方近く子供たちが杉の枝葉で二尺四方ぐらいのみこしを作り、てんでに小旗に虫送りなら、虫送りと書いてみこしに差し、幣束を入れて大勢で担ぎ「虫の神を送りやれ」「じむのしょうを送りやれ」と唱えながら村中をねり回り、村はずれからみこしを川に流して終わる。
 五月中旬に焼畑への火入れが村中同じ日に行われる。無事に終わった夜は、各戸ごとに「虫供養」といって、仏壇に酒を供えた。翌日は村中の老人たちが寺で虫供養題目をして、藪(やぶ)焼のために焼かれた数知れない動物の霊を供養したものであるが、戦後には藪焼の翌日がたまたま雨の時だけになってしまった。
 焼畑の山小屋へ寝泊まりしての農作業は六月初旬から始まるが、一家全部が住みつくようになると、小屋祝いが行われる。ぼた餅を作って近所の小屋にも配り、畑神様をお祝いする。不断は毎朝人々が食事する前に主婦は鍋をおかぎから下し、鍋のまん中の飯を鍋ぶたに三回にもり、畑神様に捧げてから家族のものがいただいた。
 節分の天気占いでは、七、八月の晴天は豊作だといっているが、これにも限度があり、一ヵ月以上も晴天が続くと、農作物は枯死寸前になり、山の草木さえもしぼんでしまうことがある。こうなると神様に頼る以外にない、そして雨乞いになる。雨乞いは村の重要な行事として、足止めがふれられ、村中総出のものになる。若者たちは午前三時ころそれぞれにたいまつを持って家を出る。白根連峰のうち広河内や白河岳の一角で、はい松を焼くのである。頂上に立って一斉にお題目を唱えていると不思議に煙にさそわれてか、雲が湧いてくることが多い。若者たちは雨のきざしに喜び勇んで下山する。途中早川の淵に飛び込んで汗を流し、身を清めて寺へ集まる。寺では朝から村中総出のお題目が唱えられて若者たちの帰りを待ちかまえる。若者頭が山頂でのもようを報告すると、どっと歓声があがり、区長から仏前に供えてあった酒が振る舞われ、日帰りの山行の苦労がねぎらわれる。
 こうした畑をめぐる村人の信仰を、詩人田中冬二氏は「奈良田のほととぎす」の中で
 ――(前略)村の人々は山の神に深い信仰と敬虔の念を懐いていた
 それ故たとえば炉の鍋の煮物にしても
 それが煮えると先主人か主婦がそれをとって
 鍋の蓋にのせて山の神にささげる
 そしてそれをふたたび鍋にかえしてから
 はじめて家族一同食べる
 古来そういうならわしである
 ――(中略) 土用の炎天の正午頃
 老人や女たちが寺に集まっている
 四十余日も雨がなく日照りがつづいているので
 若い者たちは朝暗い中に起き出して
 農鳥岳へ雨乞いに行っているのだ
 若い者たちが農鳥岳の頂上で這松を燃やして
 雨乞いをする時刻を見計らって寺では
 老人や女たちがこれに合わせて祈願するのだ
 雨乞いをすませた若い者たちは山を降りると
 まずいちばんに早川の流れにとびこんで禊をする
 そして帰って来た若い者の眉宇には生気が溢れている
 これを迎え犒らう老人や女の眼ざしの何と慈愛に充ちていることだろう
 奈良田のゆうぐれの美しいひとときだ。

と、その情緒をあますところなく歌っておられる。
 焼畑の豊作を願う村人たちの信仰はあつい。旧暦八月十三日は虚空蔵のお祭りで、虚空蔵は作神様だと信ずる村人たちは、まだ完全な実りではないが、かいとの粟穂を供え豊年に感謝する祭りのうちでは最も盛大なものである。
 焼畑の豊作ともなれば、収穫作業は手間どり、旧暦十月十日の「十日夜」近くまでたっぷりかかる。十日夜は畑神様が天へ帰られる日なので、その年最後の祭りであり、一家全部そろって神への感謝を捧げる。この日は餅をつき「おからく」をはたいて、一升(ます)へ入れて供え、ご馳走を食べ酒を飲んでのんびりと過ごす。
 神様のいない焼畑では、若者が収穫物を家に運搬する仕事だけが残っているが、老人たちはもう山へ行くこともなく、長い冬を越す準備に取りかかるのである。


奈良田の焼畑語い(彙)

  あらく 焼畑の総称でもあり、これに対し普通畑を「かいと」という。一般には焼畑の初年次で、秋に藪を切って粟を蒔付けるものを呼び、「そば」を蒔付けるものは「そばじ」という。
 
  そうり 全国的には焼畑の休耕原野の意のようであるが、奈良田では新開畑の意が強い。
 
  あづきばたけ 小豆畑で、焼畑の二年目に、大豆や小豆を蒔付けることからこの名が生まれた。
 
  くな 焼畑の三年目で、耕作そのものに苦労がないので「苦無」だという説もあり、多く粟、とうもろこしなどを蒔付ける。
 
  ふるくな 焼畑の四年以降で、実際にはあまり例がない。「ひえ」「油菜」などを蒔付ける。
 
  こなしま 焼畑二年目以降の「小豆畑」「くな」などを総称していう。
 
  くろのう 焼畑初年次「あらく」の別称であるが、「苦労農」か焼けた地での作業が黒くなる「黒農」か。
 
  やぶきり 藪切りで、焼畑にするために伐採する作業。秋に伐るものが「あらく」になる。
 
  そばやぶきり 蕎麦藪伐り、七月ごろ伐採するので夏藪伐りともいう。そばを蒔付ける。
 
  やぶこづくり 藪小造り、前年秋に伐採したものを春五月枝打ちして火入れに燃えやすくする作業。
 
  やぶやき 藪焼、火入れ、春五月中下旬ごろ、村中一斉に行われる。
 
  ほんぎり 火切り、火入れにより他へ延焼するものを防ぐため、火入れ地周辺に防火線をつくる焼き方をいう。
 
  ひっしゃりやき 引退焼、火勢をゆるめるために、周囲から内部に向かって火を入れる。
 
  ほんづけ 本付け、内から外へ、下から上方へ一斉に点火する。
 
  やびろい 野拾い、火入れをした後の地ごしらを総称していう。
 
  よせかけ 寄掛け、急傾斜地の土砂崩落を防止するために、焼け残りの材木を、切り株から切り株に渡し、それに細木の杭を打ち込んで、土砂止めを作る作業。
 
  つぶら 焼け残った不用の材木などをまとめて焼く作業。
 
  つまでひろい 「やびろい」をした後になお残った木片などを拾う作業。
 
  あととり 後取り、焼畑へ蒔付け、終わったあと、木の根など掘り起こされたごみを「あととりかぎ」で搔き集めて整地する作業。
 
  こさぎり こさ切り、焼畑の周囲にある樹木を伐採して、作物への蔭にならないようにする作業、たとえ他人の所有する樹木でも、無条以で伐採できる。(甲斐逸見筋谷戸村に享保元年こさ切の定書(甲州文庫史料)がある。)
 
  かしら 焼畑は急傾斜地が多い、それぞれの畑のうち、その上手をいう。
 
  しっで 「かしら」に対し下手をいう。
 
  わった 焼畑の蒔付け「うない」や、除草、収穫等にすべての作業は、二人以上の場合に、下から上へだけでなく、階段的に自分の持ち場があり、通常右手から始めた場合、先頭を行った人は、帰りには最後を行くということになり、一回りすることを「ひとわった」という。
 
  かとうが 焼畑用の鍬、鍬自身は細く柄も短かく、急傾斜地の堅い地を耕すのに適している。
 
  あととりかぎ 後取り鈎、熊手のようなもので、焼畑を耕した後のごみを搔き集めるのに使用する。
 
  かーはばき 皮脚絆(かわきゃはん)急傾斜地での耕作では、石が落下して足や脛をけがすることがあるので、それを防ぐために、「さわぐるみ」などの皮で作った脚絆。
 
  うど 焼畑での収穫のために、畑のほぼ中心地に平担地を作る。
 
  のれん 豆類の収穫に「うど」の周囲に張りめぐらす布、藤で織った「タホ」が用いられる。
 
  うちわ 団扇、焼畑で脱殻用の送風機に代わるもので、竹の骨に紙を張った大きなうちわ、腰の帯にはさみ両手であおぐ。
 
  こじゅうち 小地打、豆類を脱穀するために、地面の豆類を打つ木の枝を利用した道具。
 
  あわたたき 粟叩き、粟の穂を木や石の台にのせ、これで叩いて脱穀する。
 
  によう 収穫した粟を束ねたものを集めて、脱穀するまで保存しておくために、穂を内にして積み重ねて濡れないようにする。
 
  はぜ 収穫した粟を脱穀するまで一時的に保存するため、丸太を渡しそれに穂を下にして掛ける。  

他地域との比較

 これまで奈良田の焼畑農耕を、民俗学的立場から見てきたが、これを他の地域と比較対照してみることも意義があると思う。
 幸いにして資料は古いが、昭和十三年二月の「地理学評論」(第十四巻第二号)の論説に「五家荘の焼畑耕作」という上野福男氏の報告がある。ここでは上野氏の論文から五家荘と奈良田の焼畑を比較してみたけれども、環境といい方法といい、大同小異であって、共通点の多いことがわかる。
 ただ上野氏がいわれるように「隔絶的諸性質――を持続しているものと認められる。何故ならば山林地は広大であるに拘らず、林業の上の対象地として意義が甚だ薄いから、山林地を直接食糧の生産に当てたのである。(中略)しかし、将来交通の発達は一層林業的色彩を斉すであろうことは、限られた範囲に木炭の産出或は植林等が起りつつあることによって察せられる。同時に現在の如き焼畑形態が漸次減少の傾向にあることが考慮される」としこのように昭和十年代において、すでに開発が進みつつあり、焼畑に変化の兆しの見える五堔荘であるに対し、奈良田における同時期では、このような傾向はまったく見られず、盛況のままに二十年後の昭和三十年までなんの変化もなく持続されたのであって、これは奈良田の地域開発がいかに遅れていたかを物語るものである。
 次に焼畑の諸項目を、上野氏の五家荘と奈良田を対比してみよう。
 

  項目 五家荘
 
奈良田
  焼畑の耕作上の地位

純農業的焼畑(自給自足)
 

  焼畑初年次の名称 秋藪木場(あきやぶこば)
夏藪木場(なつゃぶこば)

 
あらく(秋藪)
そばじ(夏藪)
  初年作物 秋藪 稗(時に粟)
夏藪 そば

 
あらく 粟
そばじ そば
  二年次以後の作物 粟、稗、とうもろこし、大小豆
大麦、芋類、馬鈴薯、野菜

 
大小豆、粟、稗
菜種
  耕作年数 秋藪 三~五年
夏藪 三~四年

 
あらく 三~四年
そばじ 二~三年
  休閑年数(同期) 秋藪 二十~三十年
夏藪十~十五年

 
十六年(時に三十年)
  伐採の方法 主幹を立てたままにして置くものが多い
 
皆伐
  一戸当たり平均面積 一町五反
 
一町三反
  出作小屋の有無 小屋を掛ける(時に泊る)
 
小屋を掛け必ず泊まる
  小作について 手間収量の三分の一を納入
(時に植林手間で採算)
植林代行だけ

焼畑生活の一年

○「あらく」作業開始前

 陰暦正月は、たいてい節分前後になる。この頃は野も山も深い雪に埋もれて、峠道はおろか村内部落間の道路さえ人通りの絶えることがあった。したがって山にわけ入って働く男はまったく無い。冬のうちに材料を集めておいた者だけが、下駄、曲物等を細工小屋おちま(落間)という家の中の作業場で作っているだけで、女の人には収入になる仕事がない。老人たちは題目講に集まり、組ごとの各戸を巡回して「たほ」の糸を作り、世間話しに花を咲かせ、当屋で出してくれる湯茶や、時には濁り酒の接待にこの上ない楽しみを感じた。夜には一家団らんのうちに民謡その他の芸事を伝承したのもこの時期で、雪に埋もってめいるような静けさの家々から、親子で奏でる三味線の音が、にぎやかというよりも、なぜか物さみしく流れる。
 奈良田の正月一ヵ月は一年中の行事を集約したかのように、行事の連続である。小正月を送り、春祭り(旧暦一月二十五日奈良王神社・天神祭)が終わっても、まだ三月上旬で梅の蕾(つぼみ)も動かない、男たちは山仕事の準備で道具の手入れに日を費やすが、女や老人は仁王講題目といって、徴兵検査に当たっている家に集まり、検査に合格しないようにと祈る、たいてい三、四軒でこれが終わると、もう三月も中旬を過ぎてしまう。
 三月下旬になって梅も満開、たまに雪の降ることもあるが、一両日で消えてしまう、四月に入っても日蔭には雪が残るが、雪の下で草木が動き出すように、野に山に人々も動き出す。「おまき」(ミツバツツジ)が咲くころになると、タホにする藤を切る適期とあって、女衆による藤切りが四、五日続く、焼畑最初の作業は、焼畑への植林のため山から苗木を取って、四月中に植樹する。
 五月になれば「あらく」の仕事が始まるので、それまでに稼がねばならない。そのために男が山へ入るのを「農稼」という。女は麦の手入れ、馬鈴薯植え、と待ちかまえていたように農作業が続く。四月下旬から五月上旬には山で稼いだ産物を下げ、あらくで必要な物資と替えるために、峠まで運ぶ「荷替え」は女の仕事である。

○「あらく」蒔付け作業

 四月下旬から五月上旬にかけて、男たちによる「やぶこづくり」作業が始まる、これは伐採したままになっている樹木を、枝を落とし幹を玉切って、火入れに際しよく燃えるためにするもので、普通一町歩当たり男一人で五、六日を要する。五月中旬から下旬にかけて晴天続きの日を選び、火入れが行われる。区長からの「ふれ」で、部落の若者全員が手に手に「たいまつ」、消火用具の「とうが」などを持って集まる。まず火入れ用地に延焼を防ぐための防火線「ほんぎりやき」(火切焼)をし、次いで「ひっしゃりやき」(引退焼)によって、周囲から内部に向かって火を入れる。これで延焼の恐れがないと見定めた時、老人たちの指図によって、人々は安全地帯に退避し、下方から上方に向かって「ほんづけ」に一斉火入れをする。何町歩もの一団地である場合、一面の火の海は壮観そのもので、女子供たちが見物に出かけたものである。もしも風にあおられ、火勢に乗じて他の山に延焼したら、若者たちの消火作業は、言語に尽くせない苦労があった。いずれにせよ、夜になれば湿気のために火は消えてしまうのが常である。その夜各家々では「虫供養」のために酒が供えられ、もしも翌日が雨ともなれば、村中寺に集まり虫供養題目が唱えられる。こうして「やぶやき」が終わり、あらくへの蒔付準備が進むのである。
 藪焼の済んだ焼畑へ、男たちは小屋掛けが始まる、小屋の位置は、水場に近い尾根が昔から決まっており、平らにして山の手に石積みなどしてあった。そこへ掘立て木皮葺で、七尺に十尺ぐらいの大きさである。小屋が出来れば、女の人たちによって生活用具が荷上げされ、六月初旬に入山する。
 五月上旬から入山するまでの約一ヵ月は、女を中心に「こなしまうない」の仕事がある。一昨年のあらくに粟を、昨年のあらくには小豆か大豆を、それぞれ蒔付ける。この時期については山の「つつじ」の咲き方によって自然に教えられる。
 こなしまへの蒔付けが終わり、あらくの小屋掛けが出来上がると、六月十日ごろから学校の農繁休業に入ったところで、あらくの入山が始まる。老人、子供、犬猫に至るまで全家族の引っ越である。家には戸間口に太い薪を二、三本立て掛けて、留守であることの目印にした。幼児を荷物の上に乗せ、歩ける子供たちの腰を紐でつなぎ、山道で足をすべらせて落ちないように気を配りながら入山する。山小屋に住みついて環境の整ったところで「小屋祝」が行われ、付近の小屋に「ぼた餅」を配り、酒を飲んで一家団らんの一夜を過ごす。
 あらくの仕事は、まっ黒に焼け残っている丸太を利用して、土砂の崩落を防ぐ「よせ」かけから、焼け残りの木片を集めて整地する「やびろい」、それを夜になってから燃す「つぶら」火は、あちこちに散見され、ものかなしく鳴くほととぎすの声に調和して、焼畑の風物詩でもある。
 整地の作業が男で、粟を蒔いて耕す「うない」が女の仕事であるが、まっ黒に焼けた跡での仕事である。炭と汗にまみれて顔も体も全体がまっ黒になる。「みづくみかわど」と呼ぶ水場が近ければ顔を洗うこともできるが、一斗樽(だる)で背負う水では十分に使うこともできないので、ほこりのままで寝て朝の顔を洗うことさえひかえることもある。
 部落ではあらくを別に「くろのう」というが「黒農」か「苦労農」のいずれであろうか、とにかく苦しい作業である、蒔付けの最終目標を「ちゅう」(夏至)においているので、このころ下山するものが多い。夏至より遅くなった家があると、「ゆい」(労働交換)や「すけっと」(手伝人)があるので、遅れた仕事も急にはかどり、六月二十七•八日ごろには全戸が下山する。
 下山の翌日から二、三日は、庭の草むしりや洗濯などの環境整理に過ごし、十分な休養をとる暇もなく、普通畑「かいと」の麦刈りが始まる。広い焼畑農に追われ、かいとの管理はなおざりがちなので、麦の出来はあまり良くない。麦刈りがまだ終わらないうちに「はげん」(半夏至)になるが、村の農休と決められているので、衣服も夏物のきれいなものに着替え、餅をつき夜には農を手伝ってもらった人たちを招いて酒宴が開かれる。子供たちが川で水泳を始めるのも農休からで「ぐみ」や「かみづ」が色づき、子供たちにとって楽しい季節である。

○あらくの管理

 農休後は急いで麦を片付け、男は「そば」農のため藪伐りを始める。老人はあらくの除草「一番ご取り」に山小屋へ泊まりがけで出掛ける。この除草作業は暑い時に腰をかがめての仕事だけに、老人にとっては楽なものではないが、若い者は土用中にそば蒔きを終わらねばならない。暑い時の「藪焼」「やびろい」どれもこれも体験した者ならでは知れない苦しさがある。加えて時期に制約を受けているので、親分児分関係の労働奉仕義務や、労働交換によって蒔付けはたった一日ですますのが通例である。あらくの時には一家だけの作業であったが、そば農では十数人もの大勢での作業なので、結構楽しみながらの「うない」であった。
 そば蒔きを終われば、まもなく盆になる。老人たちも下山して盆の約1週間を休む、男たちは五月以来三度の農で現金収入の仕事をしていない。収穫まで稼ぐために深い山へ入る。これを夏稼という。老人たちは二番除草にあらくへ泊まりに行く。女たちはあらくの除草に手伝ったり、山でできた製品を背負いに行ったりする。旧暦八月十三日は秋祭り(虚空蔵社)である。家中皆集まって十五夜の月見など比較的のんびりと数日を過ごす。農の収穫にはまだ間があるし、老人にも若者にとっても、幾分暇のある時期である。

○焼畑の収穫

 秋祭りも終わってしばらくすると「かいと」の粟取り、麦蒔きを十月下旬までに終わり、十一月上旬から、そばの取れ入れ、小豆、くなの粟取り、豆打ちの順で収穫作業が続く、男たちは収穫時までに来年のあらくになる伐採「やぶきり」も終わらねばならない。老人たちもあらくの粟取りに、その年最後の山泊まりに入山する。老人は山小屋に泊るけれども、若い者は泊ることはできない。朝暗いうちに家を出て山畑で収穫をし、夕方はそれを背負って帰らなければならないからである。十一月の山は白根おろしが寒く身にしみ、山小屋のすき間風は冷たい。手甲だけの素手で粟を取ると、手は荒れあかぎれからは血がにじむ。痛ましいばかりのこの生活を老人たちは一向に気にしていないが、この一年幾日を山小屋で過したであろうか。小屋の皮壁に木炭で書いた日数の印は、かなり多くなっている。食糧も衣服も家から若者たちが運んでくれる物だけで過ごさねばならないだけに、親と子、嫁と姑との人間関係が、それぞれ異なり、愛情の尺度ともなって、正月の題目講での老人たちの語り草にもなるのである。やがて十日夜(旧十月十日)が訪れるころになると、取り入れもだいたい終わり、時には雪の降ることさえあるので、老人たちも下山する。山小屋の戸口に立って、あらくをじっと見渡し「こんだの作りにゃぁ来られまいが、よく実ってくれでよ」(この次十五年後のあらくには、もう来られないだろうが、その時にもよく実ってやってくれよ」と感慨深くつぶやく姿には、土への愛着と子孫への愛情が満ちあふれ、末短かい老の悲しみが込められて哀れである。
 十日夜が過ぎてからも、若者にはあらくの粟叩き、粟背負いと取り入れをすっかり終わるまでには、霜月の祭り(旧十一月十七日八幡神社)までかかる。祭りがすむと、女や老人は長い冬を越すための準備にかかり、男たちは冬を越す準備にかかり、冬稼の山へ入る。長い正月に備えて十分稼がねばならない。高い山はもう雪が深い。雪の中での曲物作り、下駄作り、へり作り、(畳のへり)などの作業はつらい。女もまた雪の山へ、そして荷替えの峠へと、荷背負い仕事は絶えない。
 こうして来る年もまた来る年も、焼畑をめぐる村の生活史は繰り返されてきたのである。

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