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早川町の地名(小字、地名の由来 等)


地名の由来

早川町誌p.487~498より

八 総称 『早川』

九 各地区

旧五箇地区 笹走 塩の上 大久保 播磨 薬袋
中島 古屋 天久保 千須和 柿島
榑坪 山吹      
旧本建地区 初鹿島 夏秋 差越 小縄 高住
板草里 角瀬 羽衣 赤沢  
旧硯島地区 大島 雨畑 北村 原村 老平
馬場 奥沢 下見原 立石 於伊勢
二軒家 間戸 大久保山 戸屋 久田子
細野 吉沢 稲又 室草里 長畑
旧都川地区 上柳島 柳島 京ヶ島 草塩
西の宮 白石 黒桂    
旧三里地区 早川 大原野 塩島 柿草里 中州
新倉 茂倉      
旧西山地区 下湯島 上湯島 温泉 奈良田  

 

十 まとめ

六 シマ・クラ・ハタ・ノ・ハラ・ヤナ・クボ・ワダ・ショ・タケ


八 総称『早川』 

 南部氏の記録に、『承久元年己卯(ツチノトウ)十二月廿九日発早川奥州糟部郡三戸居住彼地南部改称元祖也』とあるが、この『早川』は、相州足柄郡早河庄のことであるが、雨畑村老平古札書の写によれば、『其先祖吉沢ト申所住居仕リ其節時地頭今ノ南部郷御先祖[光][行]様……略』とあり、武田氏・加賀美氏の支配下で代々甲金を採掘してきたが、最初は南部氏の支配下で、甲金の採掘を続けていた旨が記されており、承久元年(一二一九)年ごろには、相州早河と甲州早川とは、相互に人の往来があったことが推察出来る。次には、奈良田の「善知烏枯」(ウトウカレ)は、建長六年に清澄山へ遊学していた実在の人物、小室山の名僧「善知法印」の徳をしたってのものであり、建長六年(一二五四)前後の記憶が、湯島・奈良田の人々の中に残っていたことが想像できるし、人の往来も当然のことながら考えられる。そして有名な京ケ島常昌院本尊の台座銘『明応十年……………胡麻郡早川経島……………』の記録から、旧三里村の早川だけでなく、現早川町一帯が『早川』と呼ばれていたことが判る。
 もちろん、早川氏の記録もあることだし、順序としては、

 (1)本川『ホンカハ』が『ハヤカハ』と呼ばれた。
 (2)旧三里村の早川が『ハヤカハ』と呼ばれた。
 (3)『ハヤカハ』の周囲の土地が『ハヤカハ』と呼ばれた。………

と考えるべきである。
 古くは『早川入』・近世は『早川筋』とも呼ばれたが、『入』は卑称とされ、私たち町民からは歓迎されなかった。しかし、『イリ』は土地の人々の言葉ではなく、周囲の村々―蓑夫(ミノフ)・下山(シモヤマ)・飯富(オフ)・中山(チュウザン)・西島(イリシマ)辺―の人々の、自身の言葉であり、この人々は、早川のことを特に、『イリホ』と発音したことである。後世になると、『入保(イリホ)』・『西保(イリホ)』である。
 早川の『ハヤ」は、古事記神話の『ハヤスヒノト』などという『速』であり、古代日本語の『パヤ』であり、『西』・『北』・『嵐』を語源とする、『ハヤ・チ』(疾風)(テは後世)・『ハヤ・サメ」(俄雨)・『ハヤ・セ』(早瀬)・『ハヤ・カハ』(速河)などにみられる南島系言語に由来しているようである。『早川』は『速河』が原義であり、甲斐国志の、『北ニ大河アリ名早河早キコト箭ヲ射ルガ如シ』の考え方は正しい。

 最近の研究者の中には、早川の上流「野呂川」の地名起源を考察するにあたり、『カモシカ』の方言『アヲ』・『ニク』を基礎に、ツングース語の『カモシカの類』を表わす言葉『ノロ』にまでさかのぼり、『野呂川』(古名は能呂川)は、『カモシカの繁殖地」が起源であることを論証された方もある。論証が極めてすぐれているので、遠からず定説として認められることと思われるが、その場合に、野呂川と早川は一筋の同じ川であり、沿岸に人の住む部分が早川で、沿岸に人の住まない部分が野呂川であるから、『早川』の起源についても、発想を転換して考察する必要も残されている。地名はまた、事実の逆を言うこともあり、小坂→大坂→大阪の例もある。

九 各地区

(1)旧五箇地区

○笹走(ササバシリ) 
 『西ハ千須和ノ山界ナリ塩ノ上村ヘ三拾弐町是ヨリ以十八村早川入ト称ス・甲斐国志』とあり、古くは『篠走』とも言われ、交通の要路でもあった。地名は、古代日本語の『小竹細竹』(オタケササ)の『細』(ササ)に由来し、『狭い平地』と『走』からは、『下方に崖や沢のある土地』を意味するようである。万葉集でも、『イハバシル』などは同じように用いられている。

○塩の上・大久保(ショノウ・オオクボ) 
 『千須和・榑坪ノ間二下ル溪ヲ塩ノ沢ト云云、甲斐国志』とあり、今川家の浪人大野氏の開拓地ともいわれ、『鉱泉・冷泉・岩塩』に関係ある土地である。また『大久保』は『大窪』に同じで、『窪地』である。

○播磨(ハリマ) 
 甲斐国志によれば「斉藤播磨」に由来するという。古事記では、国名の播磨は『針間』である。

○薬袋(ミナイ) 
 『甲陽遺聞録貴人を見なひ説・甲斐国志美囊(ミナキ)郡の類説』があるが、史実を復元すれば、八代郡右左口村に七覚山円楽寺という奈良時代創建の山岳信仰の本山があり、薬師を本尊とし紺紙金泥弘法筆の大般若経を蔵し、真言宗大般若経転読道場であった。寺の六角堂の中の写経一千巻の裏に、『康永四年於逸見庄皆波(ミナキ)郷尾崎草庵 諏訪氏千野靱負』と記録され、(北朝康永四年は改元して貞和元年AC一三四五)納経完了とともに更に山岳信仰の回国を続け、七面山を命名し薬袋に薬師堂を建立し、座山で読経し京ヶ島で死亡。名族諏訪本流の故に、薬袋・皆井・皆川・千野の姓と地名を、上柳島に諏訪明神・京ヶ島に聖神を残した。皆波郷とは高根町である。

○中島(ナカジマ) 
 親村薬袋と古屋との中間の水辺の里の意味である。

○古屋(フルヤ) 
 薬袋の枝村ではあるが、さらにこの土地から、分家・分村していった人々からみて、『旧村』・『故郷の村』に由来し、狭いが生活の便利な村であり、豊かであり、『分村の史実』をも反映している。

○天久保(ソラクボ) 
 薬袋の枝村である。江戸時代には『空窪』と記録されている。天久保のことではないが、続日本後記に『仁明天皇承和二年詔中甲斐国巨麻郡馬相野空閑(ソラクボ)地五百町賜一品式部卿葛原親王』などの用例も見られ『窪地であり、空閑地に由来する。』

○千須和(センズワ) 
 発祥は古く、慶長年間には『千須和柿島村』といっていたが、須和村ともいっていたし、千須和が佳称で、『須和』が原義に近く、『諏訪』と同じに考えてよく、『り』の脱落で、天孫神話の『ソフル』・『ソホリ』に連なることばであり、『中心の里』を意味し、先年は古代人の住居祉も発見され、伝承も史実を反映している。薬師堂伝説の貴人『諏訪氏千野靱負』に由来する。

○柿島(カキジマ) 
 古くは『ハセ』(泊瀬)といい、早川を上下する舟や筏(つ)の『泊(ハ)つる瀬』であったという伝承もあるが、『柿』の原義は不明である。『柿の生育する土地』では説得力がやや弱い。『柿草里』の例もあり、今後の研究課題である。親村の千須和が『中心の里』の意味であることはひとつの示唆になる。『乾柿の特産地』か。

○榑坪(クレツボ) 
 『榑』とは表皮の着いた丸太のことで、『黒木の御所』の黒木と同じだと云われるが、この場合の榑は少しちがう。『榑』・『杣』・『木挽』という、古代社会における技術者集団の中の『クレ』を指し、『飛鳥板葺宮(アスカイタブキノミヤ)』などと同じ、『屋根板を製作する人のことで』近世では『板へぎ』といい、神社の『ヒワダ』から、民家の『柾(マサ)屋根』まで、生活必需品である故に、『板へぎ師』の地位は高かった。
 神社以外の屋根は、栗の木の柾目板が最も適し、日当たりと排水のよい、この土地の柾目板は、河内はもちろん治府でも珍重されていたという。また中世には、『屋根板を売る人』のことを『榑』といったが、この土地の場合には、『高級柾目板を生産する里』というのが原義であるように考えられる。

○山吹(ヤンブキ) 
 榑坪の小字『山吹の咲く岩場』と言われるが新金嶺の鉱石と関係があるようである。東電の発電所設置以後に開けた土地である。

(2)旧本建地区

○初鹿島(ハジカジマ) 
 甲斐国志によれば、古くは下山村(身延町下山で、下山は身延より早くひらけた)の一部であった。『初鹿島』は美称であって、古名は『鹿島』のようである。赤沢と同じように、中世には集落を形成していたようであり、永禄五年まで下れば信玄印書・今川氏真書状の件も記録されている。土地に関する『古名』が残されていないので、明言はできないが、地名辞典には、かつて同名の地であったらしい『鹿島(カシマ)』を、『波之架(ハシカ)島とて洪水を受けやすい土地』と説明しているが、下山一ノ宮の範囲内で、『神内(カノ)シマ』の由来を探るべきか。

○夏秋(ナツヤケ) 
 初鹿島の枝村である。甲斐国志に特に『ナツヤケ』とルビが付けてあることには必然性がある。県百科では、同名の地、長坂町夏秋を、『夏物成(畑の雑穀)のみを納める村』説と、『夏焼いて作る焼畑で、山腹や丘陵斜面にみられるが、平地にはない。中央日本に多く、夏明・夏焼・夏弥喜などに作る。』と柳田説とを紹介しているがここの場合は、入り口の川『米無川』との対応からも、『夏物成』説でいいようである。

○差越(サシコシ) 
 初鹿島の枝村、中世には、早川から南部への順路は、小縄・夏秋,差越(サ・シ・トウゲ)から下山へ出るコースであった。
 古代日本語で『差』(サ・シ)は狭いを意味し、『越』は『峠』を意味していた。『差越』は『狭い峠の下にある村』であるが、おもしろいことに、峠の地名は出雲神話の山陰地方に圧倒的に多く、『タワゲ』・『タオゲ』・『トーゲ』・『ド』・『タワゴエ』などがあり、関西以東では『越』(ゴエ)が多い。先住民の母語の違いかもしれない。差越は指越とも記録する。

○小縄(コナワ) 
 甲斐国総検地の別名『大久保縄』に由来するものではない。この土地は大久保縄の時代よりはさらに遠い昔に集落を形成していたようである。『小縄』とは、鎌倉時代に流行した『犬追物(イヌオウモノ)』の馬場の内側を示す小縄のことであるが、『範囲を示す法制用語』として、地名の中に残ったものである。『小縄・高住・赤沢村』は古くは身延の一部であったから、この小縄は、『蓑夫の里の範囲内』が原義である。

○高住(コウジュウ) 
 赤沢・小縄・高住村の一環で、甲陽遣聞録には、『七面山参拝の余徳で渡世できる。』と説明し、特に『かうしう』とルビがあるが、七面山は日蓮宗以前にも、山岳信仰の霊場であったし、三村一環の小縄が中世の法制用語に由来し、赤沢の発祥はさらに古いから、中世の社会制度に注目すれば、『口入』(コウジュ)がある。『コウジュ』とは『くにふ』のことであって、『世話をする人、案内をする人』の意味であり、『七面山参拝の余徳で渡世できる里』が正しい。

○板草里(イタゾウリ) 
 高住の一部であり、史実からは『幕府免許の檜物師の里』が正しいようである。

○角瀬(スミセ) 
 現在では西山温泉とともに、観光早川の東西横綱であるが、高住の新開地である。高住の一角が雨畑側へ深く突出し、『早川と春木川の間にできた瀬』が地名である。

○羽衣(ハゴロモ) 
 七面山の表登山口、集落の本格的形成は昭和になってからであり、地名は美称である。

○赤沢(アカサワ) 
 奈良田とともに、異本曾我物語に登場する歴史の古い里である。甲斐叢記に、『峡(カヒ)は間(カヒ)なり、アカ同類にして通へり。」とあるが、前を流れる春木川は、『春木川』・『春気川』『青木河』などと記録されているが、本来は『青気河』であったと考えられる。古代日本語で『青土』(アヲニ)といえば、青黒い色の土のことで、『出水の度に堆積する河原の土砂の色』であり、江戸時代の『春木石』の色である。また『赤土』(アカニ)とは英語の『レッド』の色ではなく、『アカツチ」・『アカガネ』・『アカハヂ』などの例のように、その『本質』を示す『アカ』であり、『青気河』との対応から、この「アカニ」の土質が形成する土地を流れる谷川が、『赤渓」(アカサワ)である。地名の赤沢は『青気河・赤渓」に由来する。そして、釈日孝の『赤沢山中天未明……………』の七言詩は有名である。

(3)旧硯島地区

○大島(オオシマ) 
 『大志万』とも美称する。『雨畑ノ東ニテ早川ニ会注ス大島ハ相会ノ義ナルヘシ。甲斐国志』とあるが、総論で述べたとおりであり、集落は『シマ』・『ウエムラ』・『雨畑のワラビタヒラ』から成っているが、『ウエムラ』が歴史が古く『ウエムラ』からみて『シマ』であり、川筋の『シマ』の中では、広い『シマ』である。すなわち『シマ』に由来し、『川辺の広い村里』の意味である。

○雨畑(アメハタ) 
 旧硯島村の中、島と上村(大島の)を除いた土地の総てが雨畑であって、雨畑という特定集落はない。一般的には雨畑の『本村』(モトムラ)という意味で、『本村』(ホンムラ)のことを雨畑と呼んでいる。しかし『本村』もまた、行政的には『北村』と『原村』とに分割されている。記録では雨畑のほかに、『雨畠』・『雨圃』などもあり、文永十一年以降(一二七四)は、金礦・生麩金・良材・硯の生産地であった。『河内領ハ駿州ノ地ヘ差シコミタル処ナリ、雨畑蓋シ阿部端の転語ナルモ知ルヘカラス。甲斐国志』とあり、『安倍畔説』も記録されている。また『古事記・天堅石の転訛説・甲斐名勝志』もあるが、『畑・圃』は古代日本語へ、「ハタ」・「ファタ」・「パタ」で通ずるが、「雨」の原義が判然としない。『クニ』の対語としての『アメ』『アマ』であれば、『行政権の及ばない土地」の意味であり、水田の全くみられないやせ地であるから、『納税免除の畑』になり、この村の草創期の税制が、『九軒九柾』と言い、穀物の納税は不必用で、年間に、長さ十五尺、縦横各一尺の檜の杣を納入したという古伝承に合致する。すなわち、本来は『穀類を納税しない里』に由来するようである。

○北村(キタムラ) 
 本村の北半分の土地が北村であり、『仲村』に対して『北村』であるが、文永年間の『高岸屋敷』・『明応五年開基正徳寺』・『永正二年創祀六社明神』も北村にある。古名を『下村』といっていたが、『北村』に改称されたのが、天文十九年庚戌年大出水以後からか、江戸期の大出水以後からかは判然としない。

○原村(ハラムラ) 
 『仲村』・『原』・『馬込』から成り、昭和十年代に『中原』続いて『原村』と改称されている。『金谷山東陽寺』・『大明神』・『鐘𨪈(ショウキ)神社』などが村を一望出来る高台の平地に祭られており、特に『鐘𨪈神社』の位置する場所は、神の降下する山として、『モリ』と呼ばれている。『ハラ』は『自然の平らな土地』である。本村では諸社の位置関係のなかで、不思議なことがひとつある。かつての『村社六社明神』と『若宮八幡』とが、村中で最も低い場所の、危険な川辺に祭られていたことであり、永正年間におけるこの土地の、政治的大変革(穀も税として納入開始)を意味する。

○老平(オイダイラ) 
 『雨畑村老平古札書』によれば、弘治二年丙辰十月には、戸数は三戸であり、移住して来た『天當氏』を加えて四戸である。『古来馬を飼育し調教していたので『追平』説・『県百科』・他の土地(狼峠・笈峠・老の沢)で『老』の付く場所は、ヤマイヌの出没地であるから、『ヤマイヌ説』などがあるが、雨畑の枝村であり、古くは『笈平』と記録されて居り、井川から順に、山伏峠・御馬谷・七面山・矢立山(ヤタチヤマ)・ヰザリガタケ(笊岳)と、一連の山岳信仰の霊場があり、安部からの『最終目的地ヰザリガタケへの入口の里』が地名の由来のようである。笊の古名は『ヰザリガタケ』である。

○馬場(バンバ) 
 『バンバ』とは『ババ』の音便形である。馬に由来することは確実であるが、甲斐国志によれば、江戸時代の一時期に、馬の飼育は、草塩十二頭・新倉八頭・西の宮・大原野・奈良田は『牛馬無之』の状態であり、雨畑全村で一頭しか飼育されて居なかったから、この時期の望月氏の先祖の一人が、本村から『馬道』を『本川』へ下り、終点の馬場との間を往復している過程で生まれた地名のようである。『貴重さと珍らしさが産んだ』地名である。

○奥沢(オクサワ) 
 老平の枝村である。『奥まった所』であり、金鉱の産出に関連して『価値ある所』の意味もある。

○下見原(シダミハラ) 
 甲斐国志には『シダミハラ』とルビが付けてあり、雨畑の四十歳以上の人もまた、『シダミハラ』と発音する。『シダミ』は、『クリ・トチの実・ドングリ・シダミ』などという、木の実の『シダミ』である。朝日の当たる東面の傾斜地を背にした、川辺の小低平地で土地も肥えており、『木の実の熟れる里』が原義であって、『シタミハラ』は近年の美称である。

○立石(タテイシ) 
 甲斐国志にも記録されており、江戸時代の初期に、この地へ、『道しるべのタテイシが建てられた』ことが、『立石』の地名になっているようであり、往時は筏交通の要地でもあった。

○於伊勢(オイセ) 
 於伊勢は美称であって、江戸時代の記録では『於石』である。甲斐志料では『於石』の意味を、『崖塩(岩塩)の沈澱した状態のものを於石』と説明している。地名は『於石」に由来すると理解していい。

○二軒家(ニケンヤ) 
 久田子の分村。

○間戸(マトウ) 
 『立石と戸屋の間』の意味、安政四年二月戸屋より現在地へ下る。

○大久保山(オオクボヤマ) 
 広い窪地である。現在は人家はない。

○戸屋(トヤ) 
 江戸時代までは『鳥屋』と記録した時もある。『トヤ』は全国的には、『鷹狩の好適地』に多い地名であるが、古代日本語の『トヤ』は『十谷』・『戸屋』・『鳥屋』などと記され、『広々とした雄大な谷間の里』を意味しているようである。

○久田子(クタシ) 
 七面山の北麓で高住界(ザカイ)までが久田子である。甲斐国志には『クタシ』とルビが付けてある。『久田志』と美称した時もあり、土地は肥沃な窪地であるが、水田には関係のない地形である。南向で日当たりが良く、温暖な戸屋に比べて、『大小の和田が発生する程に土地が肥えてはいるが、地形が北向きで日当りが悪く、稍寒冷でその上に排水も悪いため『クタ』と呼ばれたのではなかろうか。』古代日本語で『クタ・カケ』と言えば、老化して卵を産まなくなった鶏であり、『クタ・タカ』と言えば、獲物に逃げられてしまう鷹のことである。今のところ『シ』は『枝村』の意味で、原義は、『畑の土は十分に熟(コ)なれているが収穫の稍少ない枝村』か。

○細野(ホソノ) 
 この土地の上方が金鉱の産出地であった。『細野』とは本来は普通名詞であり、『山と山の間につづく細く長い原』の意味である。

○吉沢(ヨッサワ) 
 天文十九年の大出水までは、金鉱の採掘に従事した人々の家が十一戸あった。吉沢は佳称であり、地形からも土地の人々の発音からも、『四沢』が原義であるようである。

○稲又(イナマタ) 
 古くは『稲胯』とも記録されているが、水田の稲作とは全く縁の無い土地である。金鉱石、生麩金の産出地であり、文永年間には、この山から雨畑硯の原石が採掘されはじめている。大言海によれば、『胯は跨に通じ』『稲』は『ふね,ふな・かね・かな(金)』の意味があるそうである。地形が跨のように,『本谷』と『稲又谷』を分割しており、その両方の谷が生麩金の主産地であるから、『両方の谷から生麩金を産出する土地』が原義である。

○室草里(ムロゾウリ) 
 江戸時代の初期まで、金鉱石や生麩金採取の盛んであったころは、『宝(ホウ)草里』と記録されている。本来は焼畑の里であるが『室』は『物品を保管し、保温する建物や穴』のことであるし、歴史的にみても、ここには近世になると『オオヤケ』があったし、だから原義は、『倉庫の建てられている焼畑の里」でいいようである。

○長畑(ナガハタ) 
 『捻切』・『ヤンゲイ寺』・『千軒』『遊女』などの地名や伝承はあるが、往時をしのぶ古跡はわからない。
 雨畑川の下流に「長瀬」という小低平地があるが、地名は『アラクの中の大きな畑』に由来するようである。

(4)旧都川地区 

○保(ホウ) 
 地頭屋敷と呼ぶ一区画を中心に幹線道路が東西と南北にはしり、民家は屋敷割が徹底していて、完全に中世の名残りを留めている。『古ヨリ雨畑山ニ比肩ス保山或ハ芳山ニ作ル。甲斐国志』とあり、また『保とは民屋(ムラヤ)の𩅧落(アツマリテ)一締(ヒトマトマリ)となりたる所、甲斐叢記』などとあるが、本来は『ホウ』と発音し、普通名詞である。『島・原・平・畑・野・河内・谷・草里』などと同じようなものであるが、『集落として整備された度合が、更に進んでいる』のであって、御名代(ミナシロ)や職業集落の場合には、『保』が多い。
 保は有名な『甲金』の産地であったから、後者の方である。『出先役人』や『高級技術者』は屋敷割の内に住み、鉱夫は鉱山に住んだようである。原義は『技術者の村』が正しいと思われ、中世の早い時期にこの土地は発祥しているようである。

○上柳島(カミヤナジマ) 
 江戸時代には保村の枝村であった。薬袋の『薬師堂伝説』にも関係があり、『京ヶ島ニ対スル所ニ管絃島云アリ。甲斐国志』とあり、また『笛を吹き経を読み合所とて管絃島村云所あり。甲陽随筆』などと記録されてはいるが、古名は、神長島(カンナシマ)である。古代日本語では『神長』を『カムナガラ』と訓じ『神の意向のままに』という意味である。地形も亦、座山の麓で、しかも尾根崎にあたり、保・大島・薬袋・京ヶ島の境界地でもあり、古来の習慣を考慮すれば、『神の意向を占う場所』が原義である。

○柳島(ヤナジマ) 
 『ヤナジマ』と訓じ『梁島』と記録する。『魚をとる梁を仕かける好適地」の意味である。

○京ヶ島(キョウガシマ) 
 『慶長郷村帳ニ経島トアリ。甲斐国志』また薬師堂伝説の貴人が『経を読み給ひし所とて今経島と云有り。甲陽遺聞録』などがあるが明応十年銘の常昌院本尊経島氏古事から『経島』を確認できる。が、古来座山と経島は特殊な尊崇関係にあり、坐山・座山とは『神の休息する土地」のことで、七面山・ヰザリガ獄とともに山岳信仰の霊場であった。本来は『座山を祀る里』である。北朝の康永二年、京都が大混乱におちた時全国に安国寺創建が発令され、大般若経の写経が推進された。甲斐国志逸見筋及八代郡の記録から復原すると、心経寺村安国寺の隣村、右左口村七覚山円楽寺・真言七義林般若経転読道場の千部写経の裏に『願安国納康永四年於逸見庄皆波(ミナヒ)郷尾崎草庵諏訪氏千野靱負(ユキヱ)』とあり、翌貞和二年霊場回国中この名族の貴人は京ヶ島で客死した。今を去る六三二年の昔のことである。

○草塩(クサシオ) 
 『近隣以塩名ヲツクル多シ、塩ノ上・塩溪(シホノサワ)・塩島ノ類是ナリ地域ハ崕塩ヲ生スへシ』『奈良田ノ塩井アルコトク崖塩出ス臭塩ナルヘシ村名コレニヨル。甲斐国志』とあり、地名にも『臭塩(クサシホ)』の記録があるが、この時代には、自然に噴出する天然ガスの量が多く、臭も強烈であったと考えられる。三郡村高帳には『塩村』と記録されており、本来は『塩村』であったようである。天然ガスの臭気のために、『草』・『臭』などと、本来は『劣っている事象』に冠する呼名(ヨビナ)を、周囲の村々から付けられてしまったが、実際には文化十一年頃には馬を十二頭も飼育していて、『牛馬無之』の村もあるのに、経済活動の活発な村であったようである。

○西の宮(ニシノミヤ) 
 『西宮院新宝儀伝居士・永禄五戌(ツチノエ)十月十八日』に由来する説がある。この土地は御用材の発送地であったから、御用材の終着地、下山の『本真』の地、一ノ宮(賀茂明神)に対して、筏の出発地の十二所権現を、前者との対応で、無事を祈り『西ノ宮』としてあがめたことが基になっていると考えられる。なぜならば、一ノ宮の神宮はこの時代には、両神社の祭祀を兼任していたものである。『下山は一ノ宮、早川は西ノ宮』が原義であろう。

○白石(シライシ) 
 西の宮の枝村であり、古代日本語で、白を『シラ』と発音するときには、『シラユキ・シラミネ・シラクモ』などのように、『光に輝り映えるもの』を指すことが多く、同名の地の白石では『寒水石』を産出するようであるが、ここの白石では、保川の河口付近から、『金鉱石と白玉石を産出した』と云われている。

○黒桂(ツヅラ) 
 『黒桂河內ヲ界フ方言葛桂ノ清濁異ルノミ相混シテ亦転ズ葛藟ヲツヅラ卜訓ス鳥葛ヲ云ナルベシ。甲斐国志』とあり、甲斐地名辞典では『烏葛』といい、甲斐叢記では『蔦葛』と説明しているが、古代日本語では、『楓』を『オカツラ』・『桂』を『メカツラ』といい、現在でも桂が『町の木』に指定されるほどの適地であるから、桂の大木が自生していたことが考えられる。また『坐』・『畔』・『黒』は『クロ』と発音され、それぞれに、『神の休息する地』・『境界』・『丈の高い』などの意味を内包していたから『黒桂』は『クロメカツラ』であり、『高桂』の意味で、『神の降臨する桂の大木』に由来するが、『ツヅラ』と訓ずる理由はわからない。この土地の話しことばの古形から、南島系・アルタイ系・アイヌ系の祖語を推定することは簡単な仕事ではない。

*黒葛(ツヅラ)という植物がある。別名は烏葛。(←萬葉集注釈 巻第五)
 クロ・カズラと書いてツヅラなので、カズラの代わりにカツラ(桂)を当てたか?

(5)旧三里地区

○早川(ハヤカワ) 
 『最モ古ク村里開ケシ故ニ早川ヲ以テ村々ニ称スルナ。甲斐国志』とあり、総称『早川』の基になった土地である。由来は総称『早川』の項で述べてあるので省略するが、焼畑時代は山上に住み、早川伊勢守以後は今の場所に住むようになったといわれる。この土地の氏神の祭典で、神輿を奉持する若者のかけ声『ヲコシ・メンシ(オコショ・メンショ)』は、朝鮮語『ワッショ・ワッショ』(ワッソワッソ・神が来た来た)よりも貴重な祭祀用語である。

○大原野(オハラノ) 
 甲斐国志では、『オホバラノ』とルビが付けてある。『野』は『ゆるやかな傾斜地で郊外』の意味があり、『原』は『平地で、聖なる邑』の意味があり、『割合緩い傾斜地の、広い、最も肥沃な開懇地』が大原野の由来であるようだ。この村もまた古くから開けた村で、身延七面山の源が大原野の七面堂であると説く古老もいる。

○塩島(ショジマ) 
 『塩島ト云処ハ塩島郎寛ナル者開キシト云、甲斐国志』とあるが、他の『塩』の付く土地と同様に、鉱泉・崖塩(岩塩)の湧出に関係すると言われているが、ここでも古来から、『塩(シホ)』を『ショ』と発音することには変わりがない。本来は大原野の枝村である。

○柿草里(カキゾウリ) 
 町内に三十例近くある『草里』の一つ、『焼畑の跡地であるが、水辺であるために、柿島と同様、「柿」を冠することになり』『柿を目じるしにした水辺の里』のようであり、大原野の枝村である。カキやクリは珍果として貴重なものであった。

○中州(ナカス) 
 戦後に発展した集落であって、戦後も二十年代は『又口』と呼ばれ、茂倉への入り口であり、茂倉川・新宮川の中州である。

○新倉(アラクラ) 
 町内では最大規模の集落であり、東電の発電所設置後に急速に発展したが、文化十一年のころでも、馬を草塩の十二頭につぐ、八頭を飼育していて、経済活動は活発であった。『大原野ノ西ニアリ。甲斐国志』とあり、また『甲陽随筆では、西河内領早川村の奥奈良田村は』とあり、中間の大原野・新倉を入れなかったりしているが、歴史は古い。この土地は、鰍沢町の鳥屋から、十谷・茂倉・新倉の関係で考察すれば理解が早い。同名の地も多いが、『倉』は佳称であって、古代日本語では、『谷』・『洞』を『タニ』の他に、『クラ』・『ヤツ』・『ヤチ』などと訓じ、『崖や傾斜地の重なり』を指していた。また『ホラ』と発音する場合は、アイヌ語系の習慣のようである。『新(アラ)』も『新治郡』(ニヒハリコホリ)などの『新』ではなく、『荒男』(アラヲ).『荒夷』(アラエビス)などの『アラ』と同じで、『粗』・『硬』とも用い、非常に古い時代の用法を残している。原義は『急斜面の多い谷間』であるようである。

○茂倉(モグラ) 
 新倉の枝村である。甲斐国志には『茂倉』(ムグラ)『戸五拾七』と、特別にルビと戸数が記録されており、他の地区の親村以上の規模である。それだけ、生活の楽な土地であったわけである。江戸時代には、茂倉と美称されるほどに繁栄していた。江戸幕府からは、雨畑の硯。薬袋のたばことともに、茂倉の『砥石』として生麩金を除けば、早川の特産品に指定されもした。『ムグラ』と訓じたために、『繁茂する(つる草)の意味の葎(ムグラ)』から、『寂しい土地』などの説も生まれたが、原義は新倉と大体同じであって『断崖のある山や谷間』が正しいようである。中世の日本語で、『恐しいもの』の意味の、『ムクリコクリ』とは関係がない。

(6)旧西山地区

○下湯島(シモユジマ) 
○上湯島(カミユジマ)
 上・下を冠するようになったのは後世のことである。甲斐国志によれば、湯島村の下に小さく下湯島と記録してあるが、伝承では、西山温泉が開湯される以前は『柳島』・『柳ヶ島』と呼ばれていたそうである。『ヤナシマ』は地形の上からも合理的である。やはり梁の好適地であったと考えられる。『甲斐国志・甲斐叢記・甲陽随筆』などには、湯島に関する伝承や記録が多数残されている。天下の『名湯と柳島』とが地名の原義である。注目されなければならないことは、『カラサワ』の付近から、かつて『金銅製の祭祀にでも使用する道具だろう』と想像されるものが発見されていることである。現在では調査のしようもないが、多くの場合に、銅鐸は人里離れた寂しい場所の、地中に埋められているものであり、鈴に似た小さなものから、釣鐘を正面図で描いたほどの大きさのものまであり、奈良時代には、すでに使い方がわからなくなってしまったが、近畿を中心に駿河までの地方に発見される先住民の遺物であるからである。西山村誌でも銅鐸であるとはいっていないが『焼畑農耕』の里であったから、銅鐸であっても不思議はない。

○温泉(オンセン) 
 温泉と道ケ島とが行政区の『温泉』であるが、由来については説明の必要もないほど有名である。甲斐志料集では、『神祖御入湯』・『大権現様御入湯』などの記録があるから、『徳川実記』によってのさらに深い調査が期待されている。七面山とともに、『観光早川』の拠点であり、『神仙湯』である。

○奈良田(ナラダ) 
 『山界南北拾二里ト云府城ヲ距ルコト拾里余、甲斐国志』とあり、有名な『奈良法王伝説』の里であり、民俗・古代日本語の宝庫である。異本曾我物語には『大草郷奈良田村』として登場する。奈良田のほかに『楢田』・『楢溪』などの記録も見られるが、『平城・平・那羅・諾楽・寧楽・乃楽』の記録は見当たらない。『奈良』を冠する地名と、類似の伝承は各地に見られるが、この土地の伝承は、かなり体系的であり整備されていて、古さを感じさせるものがある。西山村誌によれば、集落としての発祥は鎌倉時代の初期にまでさかのぼることができるそうであるが、幕末まで『一郷一村』を誇り『山城郡(ヤマシロゴホリ)奈良田村』を自称したりしたことなどからも『焼畑文化』が古代日本語を保存して来たものと考えられる。『ナラ』とは、古代日本語では『平地(ヒラチ)の国都』の意味であるから、『大草郷奈良田村』では筋が通らなくなり、『山城郡』を考えついたもののようである。古代日本語の知識が豊富であることの原因は、『焼畑文化』を推進して来た人々の、『話しことば』が古代日本語であるからであろう。奈良田とは、『山城郡一帯の中心地』の意味である。

十 まとめ 

 早川旧十八ヵ村が集落を形成しはじめた時期は、おおざっぱに言って中世である。地名に用いられる『ことば』が古いのは別の理由がある。地形が地名を生むことが多いし、産物や動植物・住民の感情に由来することもあるが、それぞれの時代に用いられている『ことば』が地名に使われるわけであるが、地名が古代日本語であるから集落の発祥が一千三百年前にさかのぼるというわけではない。
 二千年前ころから先住民の日本語に大転換が起こりはじめ、一千三百年前の大和の国に、『古代日本語』として定着したとすると、言語学者の計算によれば、大和の周辺の村々が、順次古代日本語に同化し始め、東国甲斐国の山中の里々が同化し終えるには、約六百年、奈良時代・平安時代を経て、鎌倉時代になるという。逆に言えば、早川が隔絶した地域であるために、鎌倉時代に『ヤマトコトバ』が話されていたということになる。町内の地名が、鎌倉時代の『用語』と奈良時代の『はなしことば』のふたつとで説明できるのはそのためである。奈良時代の日本全国の人口が約六・七百万人、鎌倉時代でも1千万人前後であるから、早川町の人口は鎌倉時代の中期で約三百人前後十八カ村の各々の里の戸数は、平均して三戸が四戸であったと推定される。室町時代から徳川時代の初期にかけて、生麩金産出の増加に伴って人口が増加し、分家や枝村が誕生したが、発祥の当時は極く少数の人々が生活していたにすぎなかった。


六 シマ・クラ・ハタ・ノ・ハラ・ヤナ・クボ・ワダ・ショ・タケ 

○シマ
 四万・志摩・志万と美称することもあるようである。
 『水陸に限らず、ある限定された範囲の土地』や、『水が豊富で生活に便利な川辺の土地』の意味である。

○クラ
 古代日本語では、谷を『タニ』・『ヤツ』・『ヤト』・『ヤチ』(早川方言)・『クラ』などと訓じ、洞も『クラ』・『ホラ』があるが、『ホラ』はアイヌ語系の音であると言われている。

○ハタ
 畑も端も原始日本語では、『パタ』の音を有していて、地名の場合には、字義が重要視されている。

○ノ
 和名抄に『野能郊牧外地也』とあり、『郊外』を意味し『緑の草の生えている所』が原義に近く、モンゴル語の『ノゴガン』(nogogan)に由来するそうである。

○ハラ
 時代の違い、場所の違いによって、『ハル』・『バル』・『パル』など、訓じかたに相違はあったが、現在では『自然の広い平らな土地』であるが、中国の古書、三国志東夷伝では『巴利』と記され、本来は神の降臨する『聖なる邑』であるそうである。

○ヤナ
 全国的にこの地名も多く、『梁』(ヤナ)を仕かける好適地である。

○クボ
 瑞祥漢字を除いて考察すれば、『窪』であり、『久甫』・『空閑地』とも記録され、全国的に分布する地名でもある。

○ワダ『熟田』(ニキタ)ともいい、『表面がこなれていて、しなやかな状態の土地』を言う。

○タケ『岳』(タケ)も『山』(ヤス)も『やま』のことであるが、岳は北九州と中部日本に多く、『山』(セン)は山陰地方に多く、『森』は四国に多く、東北地方では、『森山』・『森岳』と重重ねて用い、先住民のちがいが、はっきりと表れている。

○ショ
 『塩』のつく地名は、全国的にも町内でも、比較的に多い地名であって、その付近の土地からは、多少にかかわらず、必ず鉱泉が湧出していると言われている。町内で育った人は、『ショジマ』・『ショノウ』というように、百パーセント『ショ』と発音するが、今のところ、『ショ』の基盤になる祖語が不明である。『ソム』・『ショム』の子音『ム』(m)の脱落したものなのかどうかも判らない。


集落名、字、小字

早川町誌p.47~50より

西山 奈良田 日影草里、居平、王平、寺小屋、下河原、塩島、下草里、下島、笹山、下島、広河内、鳥屋、鰍水、造札満、土ノ小屋、初島、焼山、大崩沢、エンマグロ、ホウキ休場、栗木ヨコテ、弥太郎、後草里、中塚、上ノ山、寺小屋、黒河内、奥鈴、中山、嵐山、森山
温泉
上湯島 瀬戸、高草里、大鈴、仙城、田島、池之上、湯殿、白沢、道ヶ島、上河原、荒居、地之島、沢河原、沼、向之島、行司山、河島、榎畑、南草里、延命所、前河原、居平、上ノ平、下島、向島、宮ノ下、日向畑、槁詰、扇畑、味噌道、南ノ上、勝坂、山道
下湯島
三里 新倉
(茂倉)
小之島、前下川原、山向、茂倉川内、東野、堀起、柏木、不動屋、居村、古宿、横捲、宮部、菅沼、横平、椴之木平、横道上、横道下、外向、尾而窪、石小屋、茂倉、春木、肩背、川島、水之窪、板取窪、大之辻、保代作、赤目草里、向坂、朝坂、大平、石倉、神之木、大境、栗城、郷蔵、赤岩、寄間、親知らず、上ノ山、鍋大輪、西草里、道上、道下、明地、百土、不当屋、峠上ノ切、峠下ノ切、明川、横音、胡桃沢、大堂見、本伝、別当城、伝附、天小屋配松尾、新保地上之切、新保地下之切、鈴ヶ尾上之切、鈴ヶ尾下之切、弁天、工島、小之島向、矢口、山口、宮ノ窪、下川原新開、下川原、山口
大原野
(中州)
塩島、中州、上耕地、宇無志、中道、井戸端、軒山、坂山、野津楮、桃木原、沢畑、登立、家の前、長畑、居村、外松場、大久保、嵐、鳥屋、塩釜、鍬口土、軽川平、白菊田、六呂沢、石倉、田山、藤藪、中向、南山、日蔭畑、柳、白岩、篠八、大草里、上之草里、後草里
早川 清水、古沢原、岩戸川、栗平、奥峯、居村、新居、尾合沢、大久草、長知島、間佐里、サギド、落合、長畑、立川、奥草里、ヌルデ草里、シツコ山、桑平、古次古、カスミ、古次古沢、ハカマ草里
都川 黒桂 下川原、大堺、横道、根岸、南村、小原、大原、上ノ山、小島山、小坂山、カレカシラ、小瀬楽野前、大瀬楽野前、段ノ上、中川原、日向島、日向山、川内河原、日影代、無藤、丸畑、道切、長畑、入口、高森、生木割、三奥黒桂、奥黒桂
西ノ宮 西之宮平、下白石、茅山、上白石、部台石、下川原、宇無志根双里、原、大境、蕨沢、釣原、丸、世良ノ前、西山

(柳島)
村ノ内、東原、松原、小路坂、上之平、宮下、阿部作、後小路、権現平、うむし、見出端下、名本、西平、縞、下川原、道ノ前、カラ沢、村木、川原、上白石、細野、登須良峯、尾白川、馬坂、小屋凪、滝上、後双里、笹原、官林、大国、鉱慶
草塩 前畑、下阿原、下河原、寺ノ前、阿原、久保地、堂向、根方、東根方、上之山、上堂向、上之原、下霞、上霞
京ヶ島 坂下、宮ノ下、拾八枚地、渕尻、松原、坂尻、堰下向、堰下、三瀬尾、丸亀、宮ノ平、宮ノ脇、上平、前畑、田尻、仲川原、播磨沢、上ノ山
硯島 雨畑
(久田子、戸屋、馬場、老平、本村、細稲、室畑)
蕨平、尾伊勢、戸屋、はげた山、立石、松木島、下見原、大久保山、かれ山、上坂、馬場、かけ下、根岸、上平、井戸坂、老平、うむし、舟久保、吉水、奥沢、小塚山、三方、和田、北村、上ノ山、上中村、下中村、下原村、原村、まごめ、樽沢、細野、吉沢、中小屋、稲又、室草里、菅平、長畑、遠沢、行田、新山、三滝度、根野、胡桃草里、沢山、清水沢、久田子、平生島
大島 根岸、栗の木割、川戸坂、下リ、上水ノ口、上ノ平、神南小路、尾畑
五箇 薬袋 島宮尾、西ノ窪、山岸、薬師堂、柚木、沢上、白狐、石塚、堀向、川窪、大平、大休場、中島、中島上、上ノ山、泥山、モチゴ、宮ノ平、下平、中平、神田、上ノ平、笈口
千須和 稲島、御料平、家之下、宮脇、宮下、西御料、家之上、大上、北沢、原、柿島、栗尾、切川、甘形山、カチ久保、黒沢、宮城、折木、鳥屋、成尾、大明神、玉原、コナコウ、栃窪、池ノ窪、亀窪、宮ノ平、深沢
榑坪 山吹、横手、木切戸、天神下、檜平、狢穴、黒谷、向林、孫女、仲沢入、大林、四角、日向、庄之山
塩ノ上 大横道、履方、雑事場、井戸ノ上、樋窪、大窪平、藤蔵窪、丸、直治、宮ノ下、前畑、上ノ山、居平、外破渕、釜土、向山、手挾、栗山、芋篭、外長坂、内長坂、神坂、川戸尻、中野、火奈小、播磨平、なき、屋笠、小雑里、新大窪、屋根下、日向、押越、梨木畑、朗場
笹走 浜井場、桑原、東峰、居平、向平、御崎、家ノ前、山之神、暖所、十谷戸、深沢、八山、大平、大平坂、荒金、引切、赤根
本建 赤沢 下平、竹下、上村、松葉、日影、成枯、南平、水尾、上ノ平、岩下、野際、入山、峠、島草里、坂畑、盤沢草里、襲子、大樽、棚上、檜蘇平、美女ガレ、麓、向山、ヒラガレ、仲島、萩嵐
高住 切川、栃久保、鳶巣切り坂、房具沢、北見月、見月、上ノ山、宮坂、石原畑、日影、板草里、栃原島、角瀬、生山、栃原山
小縄 恩房、後山、上ノ山、大房沢、奴多、平松、坂野、東沢、下垣外、埋沢、中平峠、松木平、大垣外、南垣外、沢奥、中山、光子沢、中谷、向蔵
初鹿島
(夏秋、差越)
差越、日向山、大入、下川原、大久保、初鹿島、峯山、枇杷草里、夏秋、西山、向山

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